F.CHOPIN、1844年5月3日父ニコラスとの別れ

「私たちの貧乏なショパンはちょうど彼の父親の死を知ったばかりです。

ショパンは今日も室内で一人で塞ぎ込んでいます。」

サンドはショパンの友人フランショームにそう話した。

息子フレデリック・ショパンの活躍を首を長くして毎日のように郵便を楽しみに待っていた父ニコラス…、ショパンが子供の頃から音楽で身を立てるためにあらゆる支援をしてきたニコラス、息子が一番の生きがであったニコラスであった。

ショパンはフィリップ王の前で演奏した、1841年12月2日と1842年プレイエル音楽堂で募金活動の一環で演奏した時以来、代表作となる≪バラード作品52≫、≪英雄ポロネーズ作品53≫、≪スケルツォ作品54≫が生まれた以外は、演奏活動が全くなかった。1842年は、母から借金を返してくださいと初めて告げられたショパン。そして、親友マッシンスキの死。マッシンスキにもショパンは借金をしていた。

ショパンはお金を返す気はあったが、出世払いでお金を返す前にマッシンスキは死んでしまった。フォンタナにもショパンは出世払いと言いながら借金をしていた。そのフォンタナもアメリカへ行ってしまった。

ショパンは自分を責めていたかもしれない、ショパンは貧乏に負けて、1843年は年末年始の家族への恒例の連絡も途絶えがちになり、ショパンはサンドに言われるがまま、ひたすらお金を稼ぐことに時間を費やした年だった。

ニコラスは息子が公の場でさっそうと演奏する姿が誇らしいとよく語っていた。

息子への最後の手紙は「高齢である私の命のあるうちに、あと2、3回は私を喜ばせてほしい」という内容だった。

サンドはチェリストで作曲家のオーギュスト=ジョゼフ・フランショームにショパンを慰めに来て欲しいと頼んだのだった。

「…そして明日、ショパンに会ってほしいのです。

あなたは彼をうまく慰めることが出来る2人か3人のうちの1人です。

私は自分自身が彼の悲しみであまりにも苦しんでいます。」いつも、ショパンを操縦しているのは「わたくし」と自負して来たサンドであったが、この時ばかりは、ショパンを慰めることがサンドにはできなかった。

それは、サンドが本当に心の底から、ショパンという人間に寄り添って来なかったからなのだ。

ショパンの家族への心情や、ショパンのポーランドヘの想いはサンドは全くわからなし、わかろうともしてこなかったからだ。

フランショームが直ぐにショパンに会いに来てくれたかは不明であるが、直ぐには来れなかったのではなかろうか、それとも来たがショパンの慰めにはならなかったかもしれない。

サンドは、今までショパンをこき使って来たが、サンドがショパンの家族に敬意を示したことなど一度もなかったが、この時、初めてショパンの母ユスティナへ宛ててサンドは筆を執ったのである。

しかし、それは母ユスティナやショパンを賛美しながらも、「ショパンの世話は私があなたの代わりにしてきたのですよ、どうしてくれるのですか」という意味なのだ。

サンドは本当にショパンに情があったとは思えないのである、ショパンの父がいなくなったことに付け込み更に家族を騙したのか…。サンドの今までの行動からこの先、サンドが突然人間性が変わることはないのである。サンドはユスティナに「あなたの息子を私は自分の息子のように世話してきた」と申し出たのである。サンドのような女に取りつかれると、家族の死をきっかけにこうこういうことが起きるのだ。

ショパンの母ユスティナはサンドの事を詐欺占い師と言い、早く別れてほしいと以前から心底思っていた。しかし、ここまで来てしまったからには、息子が大事なため、

サンドに気を悪くされないよう母ユスティナは更に借金をして、サンドに息子が世話になったお礼をしたのであった。

そして、母ユスティナはとても息子に会いに行ける身体でなかったため、とうとう姉のルドヴィカがノアンへやってくるのであった。

ニコラス・ショパン(ポーランド語: Mikołaj Chopin, フランス語: Nicholas Chopin)1771年4月15日 – 1844年5月3日)

1787年にポーランドに移住した。フレデリック・ショパンの父。ワルシャワでは家庭教師として、その後ポーランドの公教育において教育者であった。

1814年6月よりワルシャワ高等学校のフランス語教師を勤めるが1833年に同校は閉鎖された。また、1812年に陸軍砲兵初等工学校(ワルシャワ国防大学の前身の一つ)のフランス語教授に任命され1831年に閉校されるまで教鞭を執った。

1830年11月のワルシャワ蜂起の後で教育機関が再開に向け、師範学校の教職を打診されたが、学校再開まで手弁当で、フランス語教師の志願者の審査をしたり、公立学校の教材の選定に当たった。1837年に師範学校の話が頓挫すると、ニコラは引退した。しかし、

1841年まで審査員の職務に付いていた。

フレデリックとは、1835年のカールスバートでの面会が最後となった。

1844年に結核症のためワルシャワで73歳で逝去。同地のポヴァツキ墓地に埋葬された。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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