7月、サンドとショパンはノアンにいた。サンドは姉ルドヴィカとルドヴィカの夫ヨゼフ・カラサンティ・ジェドルジェジェヴィッチがパリに来ると連絡をもらい、ノアンへから、パリへショパを迎えに行かせることにした。
サンドは、ルドヴィカとその夫にパリの自分のアパルトマンの部屋を使ってくださいと親切丁寧にも取れる文章をワルシャワへ送った。
「私はあなたの到着を待ち望んでいます。
ショパンはあなたの前にパリに到着するでしょう。しかし、まだ彼が到着していてお会いになれませんでしたら、友人のロゼール譲に部屋の鍵を渡すよう手配してあります。
私のアパルトマンを無料でお使いください。
あなたが受け入れない場合は私は動揺します。」
サンドは、ショパンの父親ニコラスが亡くなったことをきっかけに、遠くワルシャワから10年ぶりに弟フレデリックに会いにくる姉ルドヴィカを労わるかのように伝えた。しかし、ルドヴィカがこの申し入れを断ったら動揺するとは、実は、
サンドは母ユスティナから、事前に6月の時の時点で、「息子が面倒をかけているのでお納めください」と、お金を受け取っているからなのである。
そのお金は借金があるユスティナは同居している末娘のイザベラの夫から借りたお金なのだ。
だから、実は、サンドがアパルトマンを無料で貸すということにはならないのである。
多少なりともサンドにもやましさがあるのであろう。だから、動揺するのである。
そして、ショパンが10年の間で、変わり果ててしまい、それは、サンドの影響で働きすぎで
消耗してしまったと悟られるのがやましいサンドは、ルドヴィカとショパンが再会する前に、自分はよく世話をしているが、あなたの弟はこれが普通なんですよ、と
事前に印象操作をし言い訳したサンドであった。
「私たちの親愛なる男の子(ショパン)は非常に虚弱だと感じています。
あなたの弟は、あなたが最後に彼に会った時から大きく変わった!と驚かれることでしょう。
しかし、心配しないでください。私は彼を過去6年間も見て来ましたが、毎日ほぼ同じままです。」
同じではないのだ、こき使われて何度も死にそうな時があったショパン…。あとは薬漬けにしたことをひた隠しにするサンド。
「毎朝、彼に会った時かなり激しい咳をします。
毎冬、2、3回悪い症状が2、3日続きます。そして彼は、時々神経痛の打撃に苦しみます。しかし、これは彼の通常の健康状態です。」このような、状態で医者にもかからず夜中の1時まで働かせていることをルドヴィカに咎められないようにサンドは事前にルドヴィカに免疫を作るために、これが普通だと語った。
そして、「その他の部分では、彼の胸はしっかりしています。
そして彼の繊細な体質は実際の病変が明らかでないのです。」
医者でもないサンドがなぜそのようなことが断言できるのか、ユスティナが疑っていたように、まさに詐欺占い師サンド。更に、サンドは
「時間があれば、彼の体質は強化されるでしょう。、しかし私は少なくとも
規則正しい生活と適切な注意を払うことで生き長らえることは確かでしょう。」
この真逆な生活を強いているのはサンドである。そのサンドの口から平気で出る悪魔のような言葉。サンド一家の借金やサンドの子供の世話にかかるお金を稼ぐのがやっとのショパン、そのため、自分の家族の借金を返すことが働いても働いてもできないショパン。
サンドは、「貧乏な私たちの坊や」と、ショパの家族が知らないところでは呼んでいるのだ。サンドは、ショパンが早死にしても私のせいではないですよと、それとなく姉に言っているようなものだ。
サンドは、霊媒師のようである、持ち上げ褒めたりしたかと思うと、脅したり、不安がらせたり、そして、親切の偽善を売り、それ以上のお金を巻き上げる。「あなたに会うことの喜びの感情で、初日に彼の精神は幾分、激しく揺れ動くことでしょう。
。、しかしそれは良いことをもたらすことでしょう。」
サンドは、ショパンをルドヴィカにポーランドへ連れて帰られては困るのである。
「あなたが来てくださる決心を決意してくださり、彼の事をとても喜ばしく思います。
私は、あなたに彼を励ますよう、お願いするまでもございません。
彼の愛する人からの長い間、離れていたため、彼は絶え間ない緊張の下で暮らしてきました。」
いくらは慣れていたとは言え、そこは肉親である、姉ルドヴィカには、ショパンが変わり果て、どこか怯えて見えるのではないかとサンドはやマルリアニの脅してきたことを悟られないように、先手を打ったのだ。
ショパンが姉ルドヴィカと再会する前に、自分はいい人であることを洗脳したいサンドである。当然、ショパンがルドヴィカに会ったら、今までのことを暴露されるのが困るからである。だから、いつもサンドの文章は嘘くさく異常に長いのである。
「...小さなショパンを私たちは偉大なショパンと呼んでいます...」
サンドは、ショパンは変わり果てた姿だけれど、それは自分のせいではない、私はあなたの弟の面倒をみてきたいい人です、と印象付けた総仕上げに、私たちは「偉大なショパン」と呼んでいますと書いた。
しかし、サンドの本当の顔はショパンのことを「シィップ、シィップ」とか、「坊や」と、使用人のようにショパンを下僕として長年呼んできたのであった。
ショパン自身もサンドに「あなたのしもべ」と自分を下げて言っていた。
サンドはポーランドから大都会パリにやって来る姉ルドヴィカと、その夫までもを言葉巧みに丸め込もうと企んでいた。
ヨゼフ・カラサンティ・ジェドルジェジェヴィッチ
フレデリック・ショパンの姉ルドヴィカの夫
(1803年ワルシャワ-1853年ワルシャワ)
1803年7月7日にワルシャワで生まれ、7月24日に聖ローカル教会でバプテスマを受けました。彼の父親は、アルメニア系の中流階級のワルシャワ家出身で、青い織物の取引に従事していた。(19世紀初頭のJędrzejewiczowieは貴族と呼ばれていましたが)ヨゼフ(1769 - 1832年頃)はコジオスコ蜂起に参加し、後にワルシャワの大佐、そして地域評議員そして平和の裁判官の地位で軍団とワルシャワ公国の兵士でした。 JózefKalasantyの母はワルシャワの商人Franciszek Tykel(Tückel)と結婚したLudwikanéeGutzeです。 JózefKalasantyにはた二人の兄弟がいた。Benon Benedykt Tykel(1793年頃 - 1858年以降)、国会議員とアウグストフ文民総督、およびFelix Tykl(1795 - 1847年頃)、ポーランド軍の船長と所有者のSkrzeszewGostynin。
彼は、Warsaw Lyceumに1824年に卒業した学生でした。同じ年の9月15日に、彼はワルシャワ大学の法と管理学部に入学し、1827年に卒業し、試験の後、その年の10月の初めに、管理の修士号を取得しました。
1828年の夏(6月10日から7月25日まで)、彼はデンマークのメクレンブルク公国、オランダ、フランダース、ポズナン公国を通って科学的な旅に出かけ、その後少なくとも8月24日までパリに滞在した。旅行。 Jędrzejewiczは、おそらくFryderyk SkarbekとEustachy Marylskiの会社に旅行しました。途中で、彼は最も有名な文化的建造物(ベルリン、アムステル
ム、ブリュッセル、パリとその周辺)の劇場を訪問しました。ベルリンのロイヤルとブリュッセル、パリのオペラ。この科学旅行の主な目的は、3人の旅行者がおそらく政府助成金を受けたことであり、各国の改善のために刑務所、病院、および家庭の制度を知ることでした。 彼は1年間パリに留まり、1829年に地元の地理学協会の会員になりました。
1829年に彼はスイス、イタリア、バイエルンとオーストリアを訪問しました。 1829年12月6日に、彼は論文の執筆および出版を条件として、ヤギエロニアン大学で哲学博士の称号を取得した。
1830年1月にワルシャワに戻った後、彼はワルシャワの政治集会によって市民評議会のメンバーに選出されました。 1830年から、彼はまた、事務職員として働き、後に政府内務委員会で働きました。 11月の蜂起の間、彼は移動式警備隊で第2中尉のランクで、そして第11回ライフル連隊で1831年8月1日から勤務しました。ワルシャワに戻った後、彼は戦争委員会の前に皇帝への忠誠の宣誓を新たにしました。
父親の死後、彼はその財産を相続した。 1832年11月22日、彼はフレデリック・ショパンの姉であるルドヴィカ・ショパン(1807-1855)と結婚しました。
1837年からはワルシャワの近くのメリーモントの農村林業研究所の法と行政の教授でした。 1838年から、彼はこの協会の再編成と1843年の保険の総局への変革まで消防協会の総局の大学でカウンセラーでした。 1930年代に、彼はまた、1834年から1844年にワルシャワ慈善協会で働き始めました。そこで、彼は、保護委員会とサーカス、審査委員会のメンバー(1834年)と行政部と物乞いの防止部(1840年)の一員を務めました。
1844年と1849年にパリのフレデリックに会いに行く彼の妻ルドヴィカを連れて行った。
1850年に彼はワルシャワ市の平和の裁判官となった。
彼の性格は評価が困難です。彼の職業的活動は、積極的に公務に専念したこことを形成することを可能にします。平和の裁判官の機能から判断して、彼は社会的信頼を享受しなければなりませんでした。
しかし、彼の身近な家族、
特にフレデリック・ショパンに対する彼の態度は、深い嫌悪感を呼び起こします。長年にわたり、有名な義理の兄弟への消極的な態度は、彼の妻ルドヴィカとその両親に移り、ショパンの家族との友好的で愛情深い関係を明らかに毒し、彼の献身的な妻ルドヴィカに対する長年の道徳的苦痛を引き起こしました。
彼は1853年5月11日に突然死去した。 同じ年の5月13日に彼はポーランドのワルシャワのポボンスキ墓地の地下墓地に埋葬されました。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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