F.CHOPIN、フレデリックの一番悲しい出来事と一番幸せな出来事

8月、フレデリックはノアンで姉ルドヴィカと幸せな時間を約1か月間過ごした。

ルドヴィカのノアン滞在が長くなったのは、フレデリックが書きかけだったソナタ作品58をルドヴィカが手伝っていたからなのである。フレデリックとルドヴィカが何を話したかは残されていないが、ルドヴィカはフレデリックの消えかかっていた音楽への情熱を呼び覚ますまで、フレデリックに寄り添って、亡くなった父ニコラスとの思い出や、子供の頃の家族の思い出を語りあったのであろう。

ショパンの生涯の中でもカールスパートで両親と会った時がショパンの一番の幸せであったが、この時はまた、それ以上の幸せを感じていたフレデリックだった。

ノアン滞在を8月いっぱいを目途にして、ポーランドへ帰るルドヴィカをパリまでフレデリックは馬車で送って行った。

別れるのが名残惜しくてフレデリックはずっと姉と一緒にパリで3日ほど過ごした。

ショパンはグシマーワにパリに3日滞在したあと、またノアンへ帰ることを報告した。

「僕は昨日の夜遅くパリに到着しました。

僕は姉とあちらこちらを走り回って、そして毎朝私のすべての時間を姉と一緒に過ごしました。

 あなたにはいつ会えますか?

 今日は姉夫婦をレイチェル [当時の有名女優、モリエールの喜劇:愛のマリオネット]に出演していた(オペラ座)]に会いに連れて行っています。

私はあなたのアパルトマンの近くに行くと思うので、

僕たちは、今夜か明日の朝にあなたのアパルトマンに立ち寄るでしょう。 姉夫婦はパリに月曜日までいます。そして火曜日(9月3日)に僕はノアンに戻り、姉夫婦は、ポーランドの家へ向かって出発します。 サンド夫人が、あなたによろしくと言っています。あなたの古くからの友より ショパン」

こうして、姉ルドヴィカは弟フレデリックが元気になったことを見届け、夫ヨゼフと共にポーランドへ帰って行った。この14年ぶりの再会の日々は、父ニコラスが亡くなり実現し、ショパンの生涯の中で一番悲しい出来事が、一番幸せな出来事となったのであった。

レイチェル・フェリックス

(1821年2月21日ムンプフ、ラインフェルデン、アールガウ、スイス-1858年1月3日(36歳)

フランス、ルカンネ)

マドモアゼル・レイチェル=エリザベス・フェリックスはフランスの 女優でした。

彼女はフランス社会で著名な人物となり、とりわけナポレオン3世とナポレオン・ジョセフ・チャールズ・ポール・ボナパルトの愛人でした。彼女の死亡時ベッドの彼女の写真を掲載する新聞はフランスのプライバシーの法律の権利の導入につながりました。


ジェイコブ・フェリックスはユダヤ人の遍歴行商人の娘でメッツに生まれました。(1796-1872)、エリザベス・フェリックス(1798-1873)母親はスイスでユダヤ人の滞在を許容する旅館の売春婦でした。惨めな家族は、父親の行商と母の売春婦で哀れみを求めて、町から町へとさまよいます。エリザベス・フェリックスは、アルザス南部に若い頃に住んでいました。当時の他の惨めな両親と同様に、父親は自分の子供を収入源と見なしていました。

エリザベスは姉のサラと一緒にギターと歌やアルザスの街の路上で朗読して物乞いをしました。

1831年パリに来た家族は不良少年の通りの市場の広場のシテ島の悪い住宅に住みました。


彼女は女優になることを決意して、パリオペラ座の元監督であったルイ・ヴェロンと知り合いました。

彼女の名声は1841年にロンドンで成功した後ヨーロッパ中に広がり、そして彼女はしばしばラシーン、ヴォルテール、そしてコルネイユの作品を演じました。[彼女はブリュッセル、ベルリン、とサンクトペテルブルクでも演じました。


チャールズ・ネグロ(1820-1886)によるレイチェル・フェリックスの写真より

1853年9月 ~10月頃

レイチェル・ミス、エリザベス・レイチェル・フェリックス(1821年 - 1858年生まれ)



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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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