ヴラディスワフ・チャルトリスキ 

 (1828年7月 3 日ポーランド王国ワルシャワ-1894年6月 23 日 65歳)

公爵、亡命政治活動家、美術品収集家

ヴラディスワフの父はポーランド貴族で、外務大臣との閣僚理事会の議長を務め11月蜂起で死刑判決を受けた後パリへ亡命したアダム・イェジーチャルトリスキ(1770-1861)。

母はパリのサン=ルイ島のホテルランバートで、ポーランド人の亡命者のための慈善活動をしたことで知られるアンナ・ゾフィア・サピエハ( 1799年-1864年)。

チャルトリスキ 家族はパリに亡命した時フォーブールデュルール地区(1834-1843)に住んでいました。

その後、ポーランド大移民の最初の社会的および政治的中心地であるホテルランバートに移り住みました。

彼の父の死後、ヴラディスワフはランバートホテルで帝政ロシアに反対する活動を続けました。1863年から1864年までのポーランド反乱の際には、英国、イタリア、スウェーデン、トルコとともにポーランド革命政府の主要外交官を務めました。しかし、反乱の敗北はポーランド王国とポーランド移民の歴史の転換点を示すものとなり、解放への希望は遠い未来となりました。

その後、ヴラディスワフは絵画、彫刻、骨董品の膨大な美術品を収集することに専念するようになりました。特に彼は、パリのセールスルームで、あるいは直接エジプトで手に入れたエジプト美術に興味を持っていました。パリのポーランド図書館に美術品を寄贈しました。1871年には、スイスのポーランド博物館にも美術品を寄贈しました。

1865年のパリ万博では「ポーランドの部屋」でチャルトリスキコレクションを出展しました。

コレクションは1876年にチャルトルスキ家が住んでいたホテルランバートから撤去されました。

1872年1月15日、ヴワディスワフは、ネムール公の娘でフランス国王ルイ=フィリップの孫娘であるオルレアン王妃マルグリット・アデレードと再婚しました。

ヴラディスワフはロシア政府によって11月蜂起の1830年以降、閉鎖し没収されていたクラクフでチャルトリスキ美術館(1801年にヴラディスワフの祖母イザベラ・チャルトリキによって創設)を1878年再開させました。

ヴラディスワフは1894年6月 23 日65歳でフランスのブローニュ=シュル=セーヌで亡くなりました。その後、彼はポーランドのシエニアワの家族の元に埋葬されました。


ショパンはパリのホテルランバートでポーランド亡命者のための活動をしていたチャルトリスキ 家族と仲間でした。

ショパンの演奏会用大ロンド作品14(1828年。出版1834年)はヴラディスワフの母であるポーランド移民のための慈善活動に生涯を捧げたアンナ・ゾフィア・サピエハに献呈されました。


ポーランド詩人のノーウィッドは広大な詩の参考書を研究し出版する支援を受ける約束をヴワディスワフとしていました。しかし、1866年、ヴワディスワフはかつての仲間であったノーウィッドに支援をしませんでした。これにより、ノーウィッドは出版が出来ず貧困が続きました。


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