「親愛なるショパン様、この手紙は君に頼みがあるのだよ。
友達としてではなく、音楽のテーマをいくつか書いて、下に署名して送ってくれないかね?」
パリのショパンにメンデルスゾーンから信じ難い手紙が送られてきたのが1844年のことであった。それから、ちょうど1年が経とうとしていた。時は1845年の10月である。
ショパンはサンドより一足先にパリに戻っていた。
ショパンはライプツィヒのメンデルスゾーンの邸宅で作曲に行き詰っていたメンデルスゾーンを手助けした帰り道に死にそうになりひどい目に遭わされた過去があった。
それから、ショパンは友人ヒラーから、「それでもメンデルスゾーンはぞんざいに扱えないやっかいな存在」と聞かされていたことを心に留めていたショパンであった。
メンデルスゾーンは1843年、ライプツィヒ音楽院を設立し、順風満帆であったはずであった。音楽院の教員には、恩のあるショパンを無視して、モシェレスとシューマン、ヴァイオリニストのフェルディナンド・ダヴィッド、ヨーゼフ・ヨアヒム、モーリッツ・ハウプトマン、という錚々たるメンバーを迎え入れたことが、逆にメンデルスゾーンの首を絞めることに繋がっていたのである。このころから、メンデルスゾーンは徐々に精神障害に苦しむようになっていた。
シューマンが次々と研究発表をする中メンデルスゾーンは雑務と作曲の両立に苦しみ、
焦りを感じていた。ショパンは、ショパンで定職にありつけるわけでなく、それでも、
「独自の道を貫いて作曲家として孤高の道を歩むよう」亡き父ニコラスからの教えを守り、
ノアンで作曲家として創作を続ける毎日であった。
ショパンの精神は孤独の中で研ぎ澄まされ、メンデルスゾーンに会わなくとも、彼がどういう状況かは手に取るように感じ取れた。
ここで、メンデルスゾーンを助けるか助けないか、助けてほしいのは本当はショパン自身であるのだ。それにも関わらず、ショパンは、1年経過したが、メンデルスゾーンへ
書簡を送った。このまま放置しておけば、メンデルスゾーンはシューマンとまた何をしでかすかわからないのである、ラインラントの音楽祭で、ショパンは蚊帳の外だというのにメンデルスゾーンはリストやポーリーヌとも顔を合わせているのだ。
しかも、メンデルスゾーンはヴィクトリア女王にも気に入られ、プロシア国王にも取り入っているのである。ショパンはあまりにも分が悪いのである。強いものに巻かれないショパンであるが、このままメンデルスゾーンからの懇願を無視したら、事態はもっと悪くなるのだ。いや、それだけではない、ショパンは相手が懇願して来ていることに対しては、たとえそれが、かつて遺恨がある相手であろうと、慈悲深いショパンは、哀れなメンデルスゾーンを助けることにしたのだ。ショパンはメンデルスゾーンへ返事を書いた。
「親愛なる友よ、あなたが私に良い知らせを書いて来てくださった、あの手紙(一年前のこと)への返事として、私が直ぐに返事ができなかったことを想像してみてくだい。
遅れたのは私が不快になったということではございません。
私はあなたが、この手紙が適切な時にあなたに到着して、あなたがそれを歓迎することを望みます。小さな一枚の断片の楽譜が遅すぎた到着でないのなら、メンデルスゾーン夫人へ私からと言って、差し上げてください。
また、あなたには、より親密な友人や称賛者がいたとしても、私のように、それ以上に心からあなたを愛してくれる人はいないことを忘れないでください。ショパン」
ショパンは、メンデルスゾーンへそう書き綴った。
メンデルスゾーンがこのショパンの慈悲をどう受け取ったかは不明であるが、この年にメンデルゾーンは「6つのオルガンソナタ」 作品.65が生まれている。
メンデルゾーンはこの年、精神障害の兆候に苦しみながらもショパンからの人情で生き延びたのだ。(メンデルゾーンはこの2年後に姉のファニーが亡くなり、メンデルゾーンは作曲を代わりにしてくれる唯一の人を失い、そのショックで後を追うように亡くなるのである。)
1845年も終わりに近づき、先にパリへ帰ったショパン追うように、サンドがノアンを発とうとしていた、11月の末である。
サンドは、ショパンの姉ルドヴィカから支援のお金が届いたのであろう。パリへ行くお金が手に入ったサンドは彼女の異母弟のヒッポリテ・シャティロンを従えて、馬車を雇って、パリへ向かった。
「土曜日の夕方、真夜中にノアンを発ちます。
私たちは明日の朝早く出発します。馬車を雇いました。
私の兄弟を連れて行きます。[彼女の異母弟ヒッポリテ・シャティロン]
私たちは、旅先では手紙がほとんど書けないから、
せめてパリで私からの手紙だけでも受け取ってください。旅先で夜あなたのことを思うと悲しくなります。
パリでは、あなたは3晩ゆっくり過ごして、疲れないようにしなくてはいけません。
私を愛して、私の愛する天使よ、愛する喜びよ。あなたを愛しています。」
サンドは、なぜ悲しかったのであろう。ショパンの心が自分から離れつつあることを悟ったのであろうか。ショパンのノアン滞在は翌年1846年が最後になるのである。この時に、既にショパンは「もうノアンに来るのは辞めようと思う」とサンドに告げていたのかもしれない。
1847年頃の肖像画より
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
0コメント