パリに戻って、ショパンは2週間が経った。パリの冬は暗くて寒い。12月に入り、ショパンはパリの不衛生な環境は覚悟をしていた。寒い冬に雨や雪でも降ればたちまち湿気でパリの街に何かと病気が流行るのである。夏は避暑にノアンで過ごし、ノアンの雪から逃れてパリに戻っても、パリも冷たい寒さが続き、寒いことからはどちらも逃れられないのだ、パリへ戻ったばかりのサンドも、ソランジュも風邪をひいてとうとう寝込んでしまった。
ショパンはというとパリのアパルトマンでワルシャワの家族へ書簡を毎日の日記のように書き続けていた。
「あなたは(ルドヴィカ)元気であると書いてある手紙を受け取りました。」フレデリックはノアンで5日間かけて書いた書簡の返事をパリで受け取っていた。(その返事は現存しない)
「ただし、バルチンスキ以外はみんな元気だそうですが、バルチンスキもそのうち良くなることでしょう。」フレデリックの妹イザベラの夫のバルチンスキは高校の最高検査委員会のメンバーであったがロシアの聖騎士団を持っていた、1843年に教官を辞任して1845年からは政府歳入庁の鉱山部門の事務長を務めていた。
「ママは冬をかなり順調に過ごしているそうですね。ここはまだ寒くありませんが、
パリの冬は、暗くて湿っていて憂鬱です。」
パリの冬はフレデリックが言うように暗くて陰気であった。それがまた、詩人や芸術家のインスピレーションを沸き立たせるというものだ。
「あなたが覚えているように、私は一人でパリにいつも戻ります、そして今年もそうでした。サンド夫人は木曜日にモーリスとソランジュのふたりを連れてパリに戻られました。」
ノアンでもめていた使用人のヤンとスザンヌのことも姉ルドヴィカにフレデリックは書いた。ヤンをモーリスとソランジュが二人でいじめるので、ショパンはヤンを辞めさせざる得なくなったのだ。ヤンはソランジュにいじめられるストレスで、もう一人の使用人の仲間のスザンヌを「雄豚」とか「背中のような顔」と、からかっていじめていたのだ。
結局ヤンを辞めさせることがショパンは大仕事であったと騒ぎをルドヴィカに報告した。
「ヤンの代わりの使用人として、私には正直で教養のある人が必要です。
友達のアルブレヒトが私にフランス人のピエールを見つけてくれました。
信頼性が高く、インテリジェントで、忠実な人です。彼は私のワルツ作品18を献呈したローラ・ホースウォード嬢のところで7年間働いていました。
彼は綺麗好きで、少しゆっくりですが今のところ彼は私を怒らせません。」
ショパンは使用人はポーランド人と決めていたが、ヤンのことで懲りたようで、ピエールというフランス人の新しい使用人を雇うことになったとルドヴィカに伝えた。ルドヴィカが1年前ノアンで使用人を見て帰り、それを母に話し、心配しているのではないかとフレデリックは思ったのであろう。
それから、ルドヴィカからの問いかけに(現存しない)に答えるかのようにフレデリックは続けた。
「ノアンを知っているルドヴィカは、そこで会った人がどういう人か気になると思いますが、フランソアの娘ルースさんは、フランソアさんとふたりでパリに来ています。
あなたは、使用人のスザンヌとサンドの娘さんソランジュのことも気になさっておられますが、ルドヴィカが手紙で訊ねてきたことは、どれも真実ではありませんよ。」
ルドヴィカはノアン滞在中にルースさんとソランジュのことを村の人からよくない噂話を聞いたのであろう。ショパンとソランジュが仲がいいことを疑ったり、ソランジュは本当はサンドの子供ではないなど、息子モーリスは不良だからかかわらないほうがいいなどなどの村の噂なのであろう。
モーリスのことも悪い噂しかルドヴィカの耳には入らず、フレデリックはだまされているのではとルドヴィカは心配して訊ねて書いてきたのだ。フレデリックはルドヴィカを安心させるために説明を続けた。
「モーリスは、父に(サンドの離婚した前の夫デュドヴァン)会いに行く予定でしたが天候が悪く行けなかったのです。彼の父親は夏の間はガスコーニュ(フランス南西部)の田舎の家にずっといたのです。ですから、
他人の幸せに耐えられない人々の悪いうわさを信用しないでください。」
フレデリックはルドヴィカが心配する理由も本当は当たっているところもあり解っていたのだが、夫を失ったばかりの母ユスティナにまで心配をかけたくなかった。
そして、フレデリックはここからの説明が更に長かった。サンドに関する事である。
「私は一人でパリに到着しましたが、私がノアンを出発した後、サンド夫人はパリに来る前に、彼女のいとこを訪ねたのです。サンドのいとこはトゥール(フランスの中部)の近くにあるシュノンソー城の近くに住んでいるのです。
シュノンソー城はフランソア一世(1494年 - 1547年)の頃に銀行家のトーマス・ポアイエが建てたものです。フランシスは銀行家からそれを没収し占領したのです。
後にカトリーヌ・ド・メディシスが定期的にそこに住みました。(オペラ座のレ・ユグノッツでは、第二幕の風景がこの城を表しています。ルイーズがパリで見たと思うんですが。)
さらに、私たちのバロア(ハインリヒ3世)の未亡人がそこで余生を過ごしました。すべての部屋は彼らの時代のまま保存されています。その維持費がいくらかかるかは神のみぞ知る。」
長い前置きの後やっとサンドの話題に入るフレデリック、
「時はルイ15世(1710年 - 1774年)の摂政時代に、その場所にヴァンドーム家出身のデュパン氏(ド・フランキューイユ)がやって来て住みました。彼の秘書はジャン=ジャック・ルソーです。
デュパン氏は、サンドの祖父だった。彼の肖像画はノアンの食堂の隣、階下の大きな部屋の暖炉の上に飾ってあります。
サンドの祖父のデュパン氏の最初の妻は知性と美しさで彼女の時代における最も有名な人でした。ヴォルテール、マブリーなど、多くの写本がノアンにあります。モンテスキューのものもあります。ルソーは、デュパン氏のことを[告白禄]に書いています。
お城にはルソーとデュパン夫人との間で交わされた手紙が箱に保管されていますが出版はされることはありません。サンドはお城でデュパン氏のいくつかの写本を発見しました。
とても興味深く何よりも美しく書かれています。
ルソーのオペラ「村の占い師」がこのシュノンソー城で初演されました。フランキュイ氏が序曲を書きました。ルソーは台本と作曲をしました。70年も前の事ですが、このオペラはフランスで有名です。」
フレデリックはルドヴィカに熱心にサンドにまつわる話を書き綴った。
「お城の話はこのくらいにして、パリの話に戻ります。ギャヴァルとフランショームがルドヴィカによろしく伝えてくださいと言っています。ギャヴァル氏はマシロン(15世紀の聖職者)の著書をルドヴィカに送ると言っています。ギャヴァルとフランショームの家族と私は食事をしました。あなたについてたくさん話しました。」
フレデリックは、ワルシャワの家族へパリでの自分が元気でいることをつぶさに書き続けた。。。
ジャック・ドミニク・シャルル・ギャヴァル
(1794年8月 9 日パリ- 1871年6月 14 日 ヴェルサイユ)
エンジニア、美術史家、リトグラフ製作者、彫刻家、出版社
フレデリック・ショパンの友人
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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