ヨゼフ・クリーフーバーによるリピンスキの肖像画より(1837年頃)
カロル・ユゼフ・リピンスキ
(1790年10月30日ポーランド、ルブリン県 - 1861年12月16日ウクライナ、リヴィウ)
ヴァイオリニスト、作曲家、
リピンスキは、ポーランドの音楽家の家庭に生まれました。彼はショパンが尊敬していたヴァイオリンの名手のパガニーニと競っていました。パガニーニに認められた同時代のチェコのヴァイオリニストのヨゼフ・スラヴィーク(1806年3月26日 - 1833年5月30日)もショパンの親友でしたがスラヴィークは27歳で早世しました。
リピンスキは、1818年パガニーニと共に演奏会に2度出演しました。ケルビー二の歌劇ロドイスカ序曲が1828年1月30日リピンスキーの演奏会で演奏されました。
彼は1929年ニコライ1世の戴冠式の演奏会にパガニーニと共に出演しました。
1935年パリ滞在中にフレデリック・ショパンに会いました。ショパンはパリに来たばかりのリピンスキに親切にしました。ショパンはリピンスキをパリの社交界に紹介し、彼のためにショパンは音楽会を開催しました。そこにポーランド詩人のアダム・ミツキェヴィチの妻が出席していました。リピンスキはパリでの演奏会は1836年3月3日に一度出演しました。しかし、リピンスキはパリでの演奏会は成功しませんでした。
ショパンがマリア・ヴォジンスカ家と別れた1837年の2年後の、1839年マリア・ヴォジンスカ一家の住むドレスデンの宮廷楽長にリピンスが招かれました。彼は教育者としてもドレスデンに迎え入れられました。ドレスデン時代のリピンスキは、フランツ・リスト、クララ・シューマン、ロベルト・シューマンとチェリストのフリードリッヒ・ドッツァウアーなどと共演していました。1837年、シューマンはリピスキにピアノ曲「謝肉祭」作品9を献呈しました。
パガニーニが1840年に亡くなったとき、8人のヴァイオリニストの中からリピンスキは選ばれパガニーニが所有していたアンドレア・アマティを受け取りました。
1858年から、彼は左手の麻痺のために演奏を果たせなくなり、1859年彼は音楽界から引退しました。彼は1861年に亡くなりました。
リピンスキは、1715年のストラディヴァリ・リピンスキー・ヴァイオリン(最初の所有者ジュゼッペ・タルティーニ1692年4月8日 - 1770年2月26日)の所有者でもありました。有名なヴァイオリン製作者アントニオ・ストラディヴァリの作品で、現在でもその名が知られています。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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