テオドール・デーラー( 1814年4月20日イタリア ・ナポリ-1856年2月21日イタリア・フィレンツェ)
ピアニスト、作曲家
彼は、ジュリアス・ベネディクト、カール・ツェルニー、ジーモン・ゼヒターに学びました。
デーラーはナポリで生まれました。彼の父(1843年、ルッカで没)は、何処からか来てナポリに定住しました。彼の父はナポリで宮廷楽長を務めていました。
デーラーは、この地で指揮者のジュリアス・ベネディクトから最初の音楽教育を受けました。
1827年、デーラーは父がイタリアのルッカ(19世紀イタリアの中部にあった国。1815年ウィーン会議の決定により建国された。)で働くことになったため、共にそこへ移り住みました。
彼の家族は、1829年から1834年にウィーンに移住しました。彼は、有名なカール・ツェルニーの下でピアノを学び、同時期にジーモン・ゼヒターから作曲を学びました。
1832年からデーラーはルッカ公国がパトロンでした。
1832年に彼はツェルニーとベートーヴェンの作品をウィーンで演奏しました。
その後、彼は1838年、リストがウィーンに、タールベルクがパリで活躍していた頃にパリに登場しました。
彼はチャールズ2世(パルマ)によって宮廷指揮者に任命されました。1834年12月、彼はフリードリヒ・カルクブレナーのナポリの作品を演奏しました。
彼は1836年から1845年まで、フランス、イギリス、ロシア、オランダ、ドイツでの演奏旅行を切れ目なく行いました。
1838年のロンドン公演が彼の最後の演奏会となりました。
これらの演奏旅行は彼の父親の死により中断されました。
1843年、彼はイタリアに帰りました。
彼は、1846年にルッカ公爵によって男爵の称号を与えられました。
彼は1845年にロシアでエリザベータ・シェレメテバ伯爵夫人(エリスシェレメトジェフ、1818-1890)と結婚しました。ショパンが亡くなる2年前の1847年には、デーラーはパリ音楽院で演奏しました。
彼はロシアの伯爵夫人と結婚した後、デーラーは公開演奏から引退しました。
その後、彼はしばらくの間はモスクワに住んでいました。
1848年になると、彼はイタリアのナポリへ帰りました。彼はナポリに住んで、そこでピアノ小品やオペラを作曲しました。
テオドール・デーラーは、1856年2月21日イタリア のフィレンツェで41歳で早世しました。
⁂ショパンにまつわるお話⁂
1841年ショパンと親交があったハインリッヒ・ハイネは、デーラーについてこう書きました。
「彼を2番目の列のピアニストの最後と考えるか、または、彼を3番目の列のピアニストの1番目であると信じるか。
彼はとてもかわいくてエレガントです。彼のパフォーマンスは魅力的で、
彼は、指の流れは驚くべきものですが、そこには強さも精神性も全くありませんでした。洗練された無力さとエレガントな無力感が興味深い」と、ハイネはデーラーを酷評しました。
また、ショパンはデーラーの演奏をウィーン滞在中に聴きました。
ある日、ショパンは朝からピアノを弾いた後、親友カンドラーと食事をして、その足で、
同郷のクメルスキ(地質学者でロシアの学術団体に属していた、研修という名目でウィーンに来ていた)が具合が悪いかったため、ショパンは「かわいそうだ」と思い、彼を見舞いに行きました。その夜、ショパンはウィーンの劇場でヴァイオリンのレオ・ヘルツ、
そしてデーラーを聴きました。デーラーは師であるカール・ツェルニーの曲を演奏しました。ショパンのある日の一日はとてもハードでした。
ジョセフ・クリーフーバーによるリトグラフから
テオドール・デーラー1842年頃
テオドールー・デーラー( 1814年4月20日-1856年2月21日)と妻のエリーゼ・デラー・ネ・シェレメテワ( (1818-1890)の肖像写真より
1850年代頃 (演奏活動から引退した頃)
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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