~ショパンの肖像、~ワルシャワ時代からの恩師マチェージョウスキ~

ワクワフ・アレクサンダー・マチェージョウスキ

(1792年9月10日チェシンシレジア、ポーランドとチェコ共和国の南東部 – 1883年2月10日ワルシャワ)

ポーランドの文化、法律、自由主義文学のポーランドの歴史家、弁護士


マチェージョウスキはチェコのトルリッコ村で生まれました。

彼は、ワルシャワ、ベルリン、ゲッティンゲンで学び、1819年にワルシャワ大学の法学教授になりました。

彼は主要な著書は、スラブ法の歴史(1832–1838)、16世紀以後のポーランド文学の歴史(1851–1862)です。そして、ポーランドの農民に初めて焦点を当てた、ポーランドの農民の歴史(1874)を遺しました。

彼が歴史の探究を始めたのは1812年ヤギェウォ大学でした。1815年に彼は研究を深めるために、ヴロツワフ、ベルリンとゲッティンゲンで勉強をしました。彼は1818年に博士号を取得した後、ワルシャワの高校で働き始めました。1819年 - 1831年、彼はワルシャワの王立大学で歴史とローマ法(古代ローマの法制度)の講義を受け持ちました。

11月の蜂起の間、彼は国家警備委員会のメンバーでした。

11月の蜂起の後、ワルシャワ大学が閉鎖し、彼はマゾフシェ県の裁判所の控訴裁判官に任命されました。

1837年から、彼はワルシャワの神学アカデミーで古代文学を講義しました。1840年 - 1846年、彼はポーランドの法律コースの歴史について講義しました。1860年から、彼はポズナン科学友の会の名誉会員でした。彼は、19世紀前半のポーランドの歴史家に数えられています。

1858年、文学史とスラヴ人の法律に関する彼の作品日記は、カトリック教会によって禁止された本の索引に掲載されました。

1883年2月10日ワルシャワで亡くなりました。


*ショパンエピソード*

マチェージョウスキはショパンのワルシャワ高校時代からの恩師でした。ショパンは彼から古代ギリシア文学とラテン語を習いました。マチェージョウスキは哲学者で考古学者のヴァ―ツラフ・ハンカと友人でした。

ショパンがウィーン滞在中の出来事でした。それは、ウィーンに滞在していたロムアルト氏からワルシャワのマチェージョウスキが受け取るはずの謎の荷物のことでした。ロムアルト氏はワルシャワ大学の教授でしたが、11月蜂起後に大学が閉鎖された後、ウィーンに滞在していたことがありました。ロムアルト氏は、チェコ出身でプラハで研究者であったヴァ―ツラフ・ハンカから荷物を受け取り、マチェージョウスキに送るはずでした。しかし、ロムアルト氏はウィーンを既に発ってしまいました。そこで、ロムアルトの代わりにショパンがその荷物を受け取って、ショパンの滞在するウィーンを経由して、ショパンからワルシャワに荷物を送るようにとマチェージョウスキはショパンに指示しました。

ショパンがウィーンで滞在していたコールマルクト通りのアパルトマンは、マチェージョウスキが「テムス・ポルスカ」を発行した仲間のロムアルトと同じアパルトマンでした。

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