チャプスキ宮殿(クラシスキ宮殿)
ショパン家は、フレデリックの末妹のエミリアが14歳で亡くなった悲しみから1827年6月に、ワルシャワ大学の建物からチャザスキ宮殿(当時クラシスキ宮殿)に引っ越しました。
チャザスキ宮殿内の新しいアパルトマンは2つの部屋がありました。家族は2階の広い部屋を借りて住んでいました。屋根裏部屋は父ニコラスが管理する男子学生の寄宿舎でした。
その1年後に寄宿舎だった屋根裏部屋の一室はフレデリックに与えられました。
「僕が快適に使えるために僕の衣裳部屋から新たに階段を付けた屋根裏部屋が出来ました。古い机と古いピアノを置いて、僕の隠れ家にしようと思う。」とショパンはティトゥスに報告しました。古いピアノとはどのようなピアノだったのかは不明です。
2階の家族の居間であるサロンには新しいピアノが置かれました。フレデリック・ショパンはそこで家族や友人のために演奏しました。ヨゼフ・エルスナー、サミュエルリンデ、ジュリウス・コルベルク、カヘタン・コエミアン、ジュリアン・ウルシンニエム・チェヴィッツ、ステファン・ヴィトウィッキなどを招いていました。
フレデリックは、1830年にワルシャワを離れるまで、ここに住んで作曲をしました。
父ニコラスはフレデリックとリストの仲を取り持つために、フレデリックが使っていたピアノをリストに弾いてほしいと故郷のワルシャワに帰ってこれないパリのフレデリックに伝えました。「リストがワルシャワに来たら私たちを訪ねてほしいです。そしてお前に美しい旋律の霊感を与えてくれたこのピアノをリストに弾いてもらいたいのです。・・・昔は幸せだった。イザベラは何が起きてもこのピアノは手放そうとはしません。」そう家族の思い出をフレデリックに語ったニコラスでした。リストはワルシャワを訪れましたが、実際にショパン家に来てフレデリックのピアノを弾いたかは不明です。
残念ながらピアノは1863年の蜂起の時に破壊されたため現存していません。
チャプスキ宮殿は第二次世界大戦中に破壊され、1948-59年に再建されました。
現在の内装や家具とピアノ(画像はフリデリク・ブッフホルツの19世紀前半のピアノ)は再現イメージで現存しません。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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