1845年も12月になりショパンはパリのアパルトマンで毎日のようにワルシャワの家族=姉のルドヴィカへ宛てて書簡を書き続けていた。
「私のレッスンはすでに始まっています。今日、私は1つだけレッスンをしました。
他の二人のレッスンは中止にしました。僕は他の仕事があったからです。
私の新しいマズルカ[Op. 59]はベルリンのシュテルンによって出版されました。
通常、ワルシャワへはライプツィヒを経由して送られるので、あなた方に届けられるかはわかりません。
チェロソナタ[作品.65]、舟歌作品60と標題がまだ決まらない
[ 幻想ポロネーズ作品61]、僕は早く書き上げたいのだが、時間があるかどうか疑問です、
今、僕はレッスンの仕事が一杯なのです。」
ショパンは大作を3つも抱えていたうえに、サンドがお金儲けのために次々にレッスンの仕事を入れてくるのだ。
ショパンは寝る暇もないので、その日、パリで一番のお金持ちのパトロン、ロスチャイルド夫人のレッスンだけにして、他のレッスンの仕事を断ったのだった。
ショパンは、パリの社交界ですっかり有名になりお金持ちの相手をひとりするだけて充分にお金になるからである、ロスチャイルド家ともなればただのお金持ちではないのだ。
ショパンにとって、お金持ちのパトロンのご機嫌を取れるか取れないかは生きるか死ぬかの問題なのである。しかも、お金持ちのたしなみとは言えレッスンの内容も気を抜けないため通常のレッスンよりも時間がかかるのである。。。
作曲の仕事に貴族のご夫人方のレッスンの仕事、そして演奏会を開かないかという招待が各地から。。。一見、仕事があって順調のように聞こえるが、実はショパンは自分の置かれた状況に疑問を抱いていた。
「僕がコンサートをするかどうかについて多くの謎の問い合わせがあるのだ、それは疑わしいのです。」出演料どころか衣装代も出ない演奏会…それどころか、逆にお金を払わされて演奏会は嘘だったということも…詐欺を疑うショパンだった。
「リストは地方の演奏会からパリに戻りました。今日、僕は彼が置いて行った名刺を見つけました。」1843年2月にリストがショパンに和解を求める書簡を送ってきたことがあった。
それ以来である。リストとはベートーヴェン記念式典のこと、レルシュタープの評論のことなど、リストがショパンを裏切った1841年から友情が壊れたままであった。
そのリストがショパンを訪ねて来ていたのだ。リストはショパンが家族の愛に恵まれていることが羨ましく、そして自分とは違うショパンの繊細な才能に本当は嫉妬心を抱いていたのだ。二人が友達になった頃、最初はショパンがリストを助けたことがあったのだ、しかし、ショパンが優しければ優しいほどリストは腹が立つのだ。それは、リストがポーランドで会ったショパンの家族を思わせるからだった。「君のような育ちのいい人は。。。」
リストはショパンのことをそう言っていた。この一言にリストの複雑な嫉妬が混ざっているのだ。リストは父を早く亡くし苦労をしているからだった。
しかし、リストはショパンの父ニコラスも亡くなったことを仲間から聞き、自分が父親を失ったときの辛さを思い出したのであろう。そんなリストはショパンに会って何を話そうとしていたのか…。
ショパンはルドヴィカに続けて書いた。
「マイアベーアもパリに戻りました。今夜、僕は銀行家のレオが主催する演奏会に行ってマイアべーアに会わなくてはいけなかったのだが、それは取り止めにして、
新しいバレエ「4人の悪魔」がサンド夫人にとっては初めてで、ポーランドの民族衣装を身に付けて踊るということなので、僕たちは、それを観にオペラ座に行きました。」
マイアベーアとは偉大なオペラ作曲家ジャコモ・マイアベーア(1791年9月5日を- 1864年5月2日)のことである。銀行家のレオはショパンの銀行でもあり古くからのパトロンともいえる、ショパンがいつもお金を借りてきた有名な銀行家である。ショパンはレオからの招待をドタキャンして、自分の魂の源である、ポーランドの衣装が見たかった。フレデリックはまたもや自分の思うがままに行動したのだった。。。。
アドルフ・アダン(アドルフ=シャルル・アダン)
(1803年7月24日 - 1856年5月3日)はフランスの作曲家・音楽評論家。
パリに生まれる。父親はピアニスト・音楽教師・作曲家。
アドルフ・アダンはパリで1803年に生まれました。
アドルフ・アダンはパリで生まれました。父親のジャン=ルイ・アダン(1758–1848)はアルザスの著名な作曲家であり、パリ音楽院の教授でもありました。彼の母親は医師の娘でした。子供の頃、アドルフ・アダンアは音楽を真剣に勉強するよりも自分で音楽を即興することを好み、また、世間知らずだった作家のウジェーヌ・スー(ナポレオン軍の著名な外科医ジャン・ジョセフ・スーの息子、1804年1月26日- 1857年8月3日)
と時々不登校をしました。
父のジャン=ルイ・アダンはピアニストであり教師でしたが、息子が音楽の道をたどるという考えに固く反対していました。しかし、アドルフ・アダンは決心し、彼の年長の友人フェルディナンド・ヘロルドの指導の下で密かに作曲を学びました。
アドルフが17歳のとき、彼の父親は寛容になり、彼はパリ音楽院で勉強することを許可しました。彼は1821年にパリ音楽院に入学し、そこで有名なオペラ作曲家フランソワ・エイドリアン・ボイエルデューのもとでオルガンと和声を学びました。また、アドルフはコンセルヴァトワールのオーケストラでティンパニを演奏しました。しかし、彼はローマ賞を受賞せず、二等賞を受賞したため、父親はアダンに音楽家になることを辞めるように言いました。
20歳までに、彼はパリのオペラコミックのために歌を書き、ジムナーズ・マリー・ベル劇場のオーケストラで演奏し、そこで合唱の指揮をしました。他の多くのフランスの作曲家と同様に、彼はオルガンを演奏することで生計を立てました。1825年に、彼はフランソワ=アドリアン・ボイエルデュー(1775年12月16日 - 1834年10月8日19世紀フランスのオペラ界の重鎮、作曲家)
のオペラコミック≪白衣の婦人≫の校訂を手伝い、楽譜のピアノパートを減らしました。アドルフは稼いだお金でヨーロッパを旅することができ、ジュネーブで後にウジェーヌ・スクリーブ (1791年12月24日- 1861年2月20日フランスの劇作家)と出会いました。1830年までに、アダンは劇場の28の作品を完成させました。
アドルフ・アダンはバレエ≪ジゼル(1841)≫で最もよく知られるようになりました。
彼はその他、バレエやオペラを39作品書きました、1836年≪ロンジュモーの御者≫、1852年≪私が王だったら≫を書きました。
アドルフは、オペラの監督と口論した後、彼のお金を投資し、パリで4番目のオペラ劇場を建設するために多額の資金を借りました。
オペラ・ナショナルは1847年に設立されましたが、1848年の革命のために閉鎖され、アドルフは多額の借金を抱え込みました。(テアトルナショナルは後にテアトルリリックの名前で大通りデュテンプルで復活しました)。1849年からパリでの死まで、彼はパリ音楽院で作曲を教えました。
アドルフ・アダンはパリのモンマルトル墓地に埋葬されています。
***ショパンエピソード***
ショパンは1845年、パリでサンド夫人とアダムのバレエ「4人の悪魔」をオペラ座に鑑賞に行きました。
バレエの衣装がポーランドの民族衣装であることに興味があったショパンでしたが、
ルドルフがポーランドへ行ったことがあったのかは不明です。ショパンはこれについて観たとだけ姉のルドヴィカに述べて詳しい感想は残されていません。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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