~ショパンの父ニコラスをひどい目に遭わせたことがあるナポレオンの愛人になったマリア・ヴァレフスカ~

マリア・ヴァレフスカ

(1786年12月7日ポーランド・ウッチ県キェルノジァ村-1817年12月11日フランス・パリ)

ポーランドの 貴族の出身、ナポレオン1世の愛人

晩年は、ナポレオンの影響力のある将校フィリップ・アントワーヌ・ドルナノ伯爵と結婚


マリアは、キェルノジァ村のウォンチンスカ貴族の子供として生まれました。父はマテウシュ・ウォンチンスキ母親はザボロフスカ貴族出身のエヴァ・ザボロフスカでした。

ポーランドはウッチ県キェルノジァ村を所有していました。エヴァ・ザボロフスカ、その家族は裕福でした。マリアには、ベネディクトジョゼフ、ヒエロニム、テオドール、ホノラタ、カタルジナ、ウルスラテレサの6人の兄弟がいました。

彼女は先祖の貴族の屋敷に雇っていた家庭教師に教育を受けました。

ウォンチニスキ家はポーランドの古くからの貴族でしたが、1772年の第1回目のポーランド分割(ポーランドとリトアニアの 3つの領土を切断政治的国境の変更。18世紀の終わり頃に発生し、国家の存在を終わらせ、123年間にわたって主権ポーランドとリトアニアを排除しました。分割は、ハプスブルクオーストリア、プロイセン王国、およびロシア帝国によって行われました。ロシア帝国は、領土の押収と併合の過程で、連邦の土地を徐々に分け合っていた。)

で、ウォンチニスキ家の領地をプロイセン王国に奪われてしまったため、ポーランド貴族はこのポーランド分割により財産と土地を没収され貧しくなりました。

マリアの父マテウシュ・ウォンチニスキは、1794年にマチェヨヴィーツェの戦いでポーランド義勇軍として戦いに参加しロシア兵に殺されました。そのためウォンチニスキ家の生活は益々苦しくなりました。この出来事は若いマリアのロシアとオーストリアに対する憎悪を養いました。

マリアが16歳になると、2度も妻と死別していたアナスターシィ・コロンナ・ヴァレフスキ伯爵(ナポレオン1世の名義上の義父)が、マリアと結婚したいと申し入れてきました。

母親のエヴァの承諾で、マリアはウォンチニスキ家の借金の肩代わりにヴァレフスキ家に売られて行きました。マリアはショックのあまり肺炎にかかりました。

1804年6月18日、マリアは18歳でヴァレフスカ伯爵と結婚させられました。1805年の6月13日、マリアは長男のアントニを出産したましたが、この不幸な結婚は、マリアは信仰と愛国心を心の慰めにしていました。

1806年12月18日にナポレオンがワルシャワを訪れナポレオンとフランス軍は、ポーランドの救世主として熱狂的な歓迎を受けました。1807年1月7日、フランス外相タレーラン主催の舞踏会にヴァレフスキ伯爵と共にマリア・ヴァレフスキ伯爵夫人は招かれました。そこで、マリアはナポレオンと出会いました。美しいヴァレフスキ伯爵夫人がナポレオンは気に入りました。タレーランやその息子のシャルル・ド・フラオまでもがマリアに興味を持っていました。ナポレオンは早速、花束や手紙を召使に贈らせて彼女に求愛しましたが、信仰心が強かったマリアは無視をしていました。

しかし、最後のポーランド国王スタニスワフ2世の甥ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキや他の多くのポーランド人たちがヴァレフスキ伯爵の邸を訪れ、マリアにポーランドのためにナポレオンの愛人になるよう説得しました。

夫のヴァレフスキ伯爵もマリアにナポレオンの愛人になることを強要しました。マリアはポーランドのための人柱になりました。マリア自身もポーランドのための犠牲と思っていました。

ナポレオンは彼女を「ポーランドの妻」と呼び、1808年の4月から、2人は東プロイセンのフィンケンシュタイン宮殿で6週間を共に過ごしました。

1809年、ナポレオンは、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成しました。4月のエックミュールの戦いでナポレオンが勝利。5月二度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れる。次に7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながらナポレオンが勝利した。シェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削りウィーンを占領。イギリスとの第五次対仏大同盟は消滅。

この和約のあと、皇后ジョゼフィーヌとナポレオンは離婚。1810年4月2日にオーストリア皇女マリ・ルイーズ(オーストリア皇帝フランツ1世の娘で、フランス皇帝ナポレオン1世の皇后。後にパルマ公国の女公、在位:1814年 - 1847年)とナポレオンは再婚しました。この婚約は当初アレクサンドル1世の妹、ロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けました。

ナポレオンがウィーン占領後、マリアはシェーンブルン宮殿の近くに数か月間住んでいました。この間にマリアはナポレオンの子供を妊娠しました。彼女はポーランドのワレヴィツェに戻され、1810年5月4日にアレキサンドル・フロリアン・ヨゼフを出産しました。

ナポレオンはマリアの子供を認知しなかったため、アレクサンドルはマリアの最初の夫のヴァレフスキ伯爵の子供として認知されることになりました。

結局、1812年ヴァレフスキ伯爵の妻に返されたマリアは、夫との生活に耐えられなくなり7月18日に裁判所に離婚要求の書類を出し、8月23日離婚が成立しました。

マリアは、ナポレオンの兄弟姉妹たちにポーランドのためにマリアは取り入り、彼女はナポリで過ごした。1813年の春に、マリアはナポレオンの元妻のジョゼフィーヌから、マルメゾン城に息子のアレクサンドルと共に招待されました。

ジョゼフィーヌはナポレオンの命令でマリアの口封じに、マリアとその息子アレクサンドルの2人に贈り物をするようになった。

1814年、4月6日に皇帝を退位したナポレオンに会いにマリアは、4月13日にフォンテーヌブロー宮殿に駆けつけたが、ナポレオンは部屋で毒薬自殺を図り、意識不明状態でした。マリアはナポレオンに面会できないまま帰りました。

マリアと息子のアレクサンドルは、1814年9月1日から3日まで、エルバ島の亡命中のナポレオンを、メアリーの妹で兄弟のエミリアとテオドールと共に訪問しました。

 ナポレオンは復位の後、1815年、ワーテルローの戦い(1815年6月18日、ベルギー、当時ネーデルラント連合王国領のワーテルロー近郊においてイギリス・オランダをはじめとする連合軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)との間で行われた一連の戦闘を指す。フランス軍が敗北、ナポレオン戦争最後の戦闘となった。ラ・ベル=アリアンスの戦い)で敗れました。

マリアはナポレオンに最後の別れをするため、6月28日アレクサンドルを連れてマルメゾン城を訪れました。マリアはそこで1時間ほどナポレオンと過ごしました。そしてマリアはセント・ヘレナ島(ナポレオン1世幽閉の地として知られる)に連れて行って欲しいとナポレオンに言いました。

マリアはナポレオンと別れた後、食事が喉を通らなかったため、彼女は痩せ細り、体調も悪化していた。しかし、その後、彼女は、ナポレオンの又従弟フィリップ・アントワーヌ・ドルナノ伯爵と1815年9月7日に結婚しました。セント・ヘレナ島に幽閉されてからナポレオンはマリアの肖像画を持っていました。そしてマリアが贈った指輪は、最後までナポレオンの指にはめられていました。

1816年6月9日、マリアはドルナノ伯爵との間にロドルフ・オーギュスト・ドルナノを出産しましたが、腎機能の悪化とナポレオンとの別れによる心痛と妊娠と出産が原因で、彼女の体調は悪化しました。死期が近いことを悟ったマリアは、夫のドルナノ伯爵に頼んでフランスのブローニュの森に連れて行ってもらいました。

1817年1月には子供を期待していたマリアは彼の旧友、著名な婦人科医を訪問するためにポーランドに行くことにしました。彼はマリアを腎臓病と診断しました。マリアは妊娠によって悪化した急性中毒症でした。マリアの人生の終わりは近いようでした。

1817年 12月11日午後7時、マリアは亡くなりました。

マリアは31歳とわずか4日でした。

息子のアレクサンドルは母親のマリアの早すぎる死に「家全体が真の絶望に陥った」と語りました。アレクサンドルは言いました。「私の母は、最も注目すべき存在の女性の一人でした。」

マリアの心臓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあります。マリアの遺体はポーランドのキルノジア教会に安置されました。

息子のアレクサンドルは後にフランスに亡命し、外務大臣となって従兄のナポレオン3世に仕えました。マリア・ヴァレフスカは偉大な愛国者の一人としてポーランドで語り継がれました。





***ショパン家とマリア・ヴァレフスカ***

フレデリック・ショパンの父ニコラス・ショパンは、マリア・ヴァレフスカの子供の頃の家庭教師でした。ショパンの父ニコラスはポーランド貴族の邸宅に住み込みで家庭教師を務めていました。1798年までカリシュ県、1798年から1799年までシャファル二ャ、そして、

1802年までウォンチンスキ家の領地キェルノジャ、でマリアを教えました。

ニコラスがスカルベック家の家庭教師になったのは、その後の1802年からでした。そこで、使用人として働いていた没落貴族の出身だったフレデリック・ショパンの母のユスティナとニコラスは出会いました。

ニコラスはマリアの事があまり好きではなかったようでした。

マリアが亡くなった後、ニコラスはフレデリックに「もしも、マリア・ヴァレフスカが生きていたら私たちショパン家はもっともっとひどい目に遭わされたであろう。。。」と語っていました。

ポーランドへの愛国心を持ちポーランドのために人柱になったマリアであったと語り継がれているマリア。しかし、先生とはいえ使用人であったニコラス・ショパンにとってウォンチンスカ貴族の子供だったマリアとは敬遠の中であったようです。息子のアレクサンドルはショパンのパリのプレイエル奏楽堂での演奏の評論を書いたことがありました。

ショパンはマリアの息子のアレクサンドルとは同い年でした。父ニコラスの家庭教師時代の事やワルシャワの家族のことでマリアからアレクサンドルが聞いていたことがあるということは充分考えられ、アレクサンドルにルイ・フィリップ王にショパン家のことをあれこれ話されたら困ることになるのでした。ショパンはワルシャワの家族がひどい目に遭わされないようにアレクサンドルに親切にせざる得ませんでした。

それにしても、マリアの心臓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあり、マリアの遺体はポーランドのキルノジア教会に安置され…、とは、奇しくもショパンと逆なのです。マリアはナポレオンを本当に愛していたということなのでしょうか…。




Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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