フレデリックが信用しているのは今でもワルシャワの姉ルドヴィカと妹のイザベラと母ユスティナだけであった。「フランショームとチェロソナタを試してみました。上手く行きました。今年それを印刷する時間があるかどうかはわかりません。」なぜかというと、フレデリックは曲が仕上がるといつからか真っ先にワルシャワの家族に送るようになっていた。
いつも出版に漕ぎつけるには、いくつもの難所が待ち構えているのである。出版社との金額の交渉、果ては曲が改ざんされる恐れもある、主版の条件を出版社が献呈者を変えて来たり。。。
そのようなことは毎度のことで、フォンタナがいなくなって以来、ショパンは新作の手稿譜のことは念には念を入れていた。ノアンでは弟子のロゼール譲に幾つか写譜をさせたが、ショパンは気に入らなくなり、自分で何枚も書くようにもなっていた。そして、出版の交渉に当たる前に、最初にワルシャワの家族に手稿楽譜の写しを送る、それを、更にイザベラとルドヴィカで写譜をする、更に原稿が無くなった場合でもふたりの記憶に残されているようにイザベラとルドヴィカが暗譜する。これだけの工程を踏んで、フレデリックの作品を家族で守ろうとしていたのだ。
そして、これはそれまで、出版のことで痛い目に何度も遭わされてきたショパン家が出版社を信用していなかったことの表れでもあった。
12月に入ってからショパンのアパルトマンは今年中に何かを何とか片づけたい人々の訪問で
ひっきりなしにドアの呼び鈴が鳴っていた。
まず、サンドの息子のモーリスが(サンドの別れる前の夫デュドゥヴァン)父親を訪ねる前にショパンに会いに来た、次に、パリで一番の富豪で有名なショパンの本命のパトロンのロスチャイルド夫人のレッスン、また、その別の日には、その他の何人かの貴族の夫人のレッスンが。。。レッスンは夫人だけではない、親友でも弟子でもあるグートマンのレッスン、作曲家で元友人のリストの意味深な訪問、それから、
その間に、チェリストで作曲家のフランショームの家をショパンが訪問、夜はオペラとバレエを鑑賞。そして、息を突く間もなく、ショパンの代父スカルベックの妻のスカルベック夫人の伯父が、これもまた、はるばるワルシャワからパリのショパンのアパルトマンを訪ねて来たのだ。
「スカルベック夫人の伯父が最近私を訪ねて来ました。彼は立派な人です。
彼は気が若くて、昔習ったというヴァイオリンを愛らしく弾く男で、彼は元気で、快活で頭の回転が速く、正直でかつらを着用せず、嘘のない彼の細い白髪を保っています。
彼はとてもハンサムなので、今日の若い男性よりも彼は比較にならぬほど若々しいです。」
ショパンはこのスカルベック夫人の伯父の突然の訪問は楽しんだようだった。
それから、「僕は長い間メリー・ウィトウィッキトから連絡がないのだ。僕には彼に
彼に何が起こったのか分からないのだ。」
ポーランドの詩人ウィトウィッキトは11月蜂起のことを詩に書くなどの活動をしたことがあり、彼は同じく詩人のアダム・ミツキェヴィチと友人であった。しかし、ウィトウィッキトは哲学者で宗教指導者のアンドジェ・トウィアスキ(1799年 1月1日-1878年 5月13日)の指導に従いミツキェヴィチとの友情を絶っていたのだ。
アンドジェ・トウィアスキは1842年にロシアへのスパイの罪でフランスから逃れ、それ以来チューリッヒに定住していた。ショパンにウィトウィッキトから手紙が来なくなり連絡が途絶えたことも、もしかしたら、このロシアのスパイだったアンドジェ・トウィアスキの指示だったのかもしれないのだ。
ショパンは胸騒ぎがしていた。親友と思っていた人がショパンから一人、そしてまたひとり離れて消えていってしまうのだ。ステファン・ヴィトウィッキのことをショパンは「メリーと愛称で呼んでいた。ショパンは彼に、1838年にマジョルカ島、1839年にノアンで作曲したマズルカ作品41を彼に献呈していた。
友人をひとり、そしてまた二人と自ら失っていくメリー・ヴィトウィッキの心の内は不明である。彼は晩年は進行性疾患によって社会から隔離されていたのでした。ショパンはワルシャワの家族が何か知っていないか、親友を信用しメリー氏の安否を気遣う人情深いフレデリックだった。
ヴィトウィッキとフレデリックは11月蜂起以前からのワルシャワ時代の友人の仲間の一人だった。ヴィトウィッキはショパンを尊敬していた、ショパンがワルシャワを発つときの最後の演奏会の評論をヴィトウィッキが書いたことがあった。
そして、ショパンがウィーン滞在中もヴィトウィッキとショパンはお互いを手紙で励まし合いました。ヴィトウィッキは健康が悪いことを理由に11月蜂起に参加しなかったが、国民防衛軍の砲兵隊に属していました。ワルシャワの頃からの仲間だったはずのヴィトウィッキ…。
しかし、アンドジェ・トウィアスキはロシアのスパイでした。そのトウィアスキの指導をいつの日からか受けていたヴィトウィッキはもしかしたらショパンを裏切っていたのか…。
1845年3月にショパンがザレスキが会いに来たことをヴィトウィッキにショパンは書簡を書いて彼に送りました。それ以来、ヴィトウィッキからの連絡がぱったりと途絶えたのだ。
ザレスキは作家でポーランドの独立支持運動に関連して1838年に最初に逮捕され、ザレスキは次の1848年までのチェルニーヒウでの刑に服する前に、ショパンに会いに来たというわけだった。
その昔フレデリックは、1830年ヴロツワフからワルシャワの家族に宛てた書簡の最後に、「キスを、キスを、キスを、ジヴ二―、エルスネル、マトゥシンスキ、コルベルク、マリルスキ、ステファン・ヴィトウィッキの各氏に最も心からの挨拶を送ります。」そう書き綴ったフレデリック。フレデリックが大切にしていた先生や友、その頃のような仲間にはもう二度と戻れないショパンだった。
ステファン・ヴィトウィッキ
(1801年 9月13日ロシア帝国ヤヌフ-1847年 4月15日ローマ)
ロマン主義のポーランドの詩人
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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