~ショパンの真向対決とは、評論家モクナッキ、そしてエルスネル先生~

モーリス・モクナッキは、ショパンのワルシャワ時代の作品や演奏を把握しているポーランドの芸術の評論家でした。ショパンがワルシャワを発つ前の1830年の1回目の演奏会では

フレデリック・ショパンの作品と演奏を「精神性と想像力に富み、生気がみなぎっている」と褒めたたえました。

しかし、2回目の演奏会のモクナッキの評論は最後の2、3行で、それまでの讃辞を打ち消すかのような付け足しが書かれました。

「ショパン氏の演奏は速い部分での勢いがたりないため彼の演奏はもっと小さなサロンであった場合は聴く人々に感銘を与えられるのではなかろうか。」と辛口の評論を書いているのでした。

これは、ショパンのポーランドの歌によるポプリと当時はショパンが呼んでいたポーランドの民謡の主題による幻想曲 Op.13の作品のことで速い部分とはアレグレットの部分のプレストコンフオーコの箇所と推測できます。

それに対して、ショパンは黙っていませんでした。

友人ティトゥスに演奏会での自分の置かれた状況を語りました。


「最初の演奏会ではチケットは完売し座席がありませんでした。しかし、

聴衆の人々に私が思っていたような印象を与えられませんでした。聴衆の極わずかな人にしか私の協奏曲は理解されませんでした。

最初のアレグロで拍手が起き、人々は興味を示し(「ああ、よくわからないが何かが新しい!」)、愛好家のふりをしなければならないと感じたようです。

アダージョとロンドに関しては最大の効果を生み出し、人々から誠実な賞賛の感嘆を聞くことができました。

しかし、ポーランドの歌によるポプリ[Op。 13]は、私の意見では、その目的を完全に達成しませんでした。

聴衆は退屈していることを演奏者に悟られないように最後に示す必要があると感じたので拍手しただけでした。

クルビンスキ(ポーランドの指揮者)はその日の夕方、私の協奏曲で新鮮な美しさを発見しましたが、ヴィメン(ファゴット奏者)は私の最初のアレグロで聴衆が何を聴いているのか全くわかっていないことを認めました。エルネマンだけは完全に満足しましたが、エルスネル(ショパンの師)は私のピアノの音色が乱れていて、低音の音が聞こえなかったことを後悔していました。その夜、招待席のボックス席の全員とオーケストラの側に立って聴いている人々は満足していましたが、1階一般客席の聴衆は私の演奏が静かすぎると不平を言いました。

だから、「シンデレラ」(ワルシャワのカフェ)に行って、皆が私の演奏について怒っているに違いない議論を聞こうではないか!

それが、ポーランドの大使館にいるモナッキが、特にアダージョについて私を賞賛した後に、私にもっとエネルギーを示すように書いて評論を終わっている理由です。

私はこのエネルギーがどこから来るのかを非常に慎重に検討し、2回目のコンサートで自分のピアノではなくウィーンの楽器で演奏しました。ロシアの将軍であるディアコウは、フンメルのピアノよりもピアノを貸してくれるほど親切で、すぐに最初のコンサートよりも大多数の聴衆が満足しました。彼らはすぐに拍手し、各音が小さな真珠のように聞こえたことを喜んでおり、最初のコンサートよりも演奏が上手であることを賞賛しました。

私が最後に舞台に出たとき、3回目のコンサートをやるように掛け声がありました。クラコフスキェ・ロンド(「演奏会用大ロンド『クラコヴィアク』」には大きな効果があり、4回の拍手がありました。クルビンスキ は、ファンタジア(ポーランドの歌によるポプリ)をウィーンの楽器で演奏していなかったことを残念に思い、翌日、グシマーワはポーランドの「クリエル・ポルスキ」で同じ意見をより強く表明しました。

エルスネルは、僕の2回目のコンサートの後でしか適切に判断できなかったと述べたが、率直に言って、僕自身は自分のピアノで演奏したかったほどだった。…」

ショパンを褒め称えていたモフナツキは最初はショパンを非の打ち所がない天才として称賛しましたが、2回目からは褒めることに消極的になりました。そしてグシマーワが書いたショパンに対する残念な文章も実はモフナツキが書いた文章でした。ショパンはオーケストラや指揮者や聴衆から様々な意見に見舞われ、自分のことを誰も擁護してくれないため、ティトゥスに実際どうだったのかを反論したのでした。そして自分の演奏に文句があるのならカフェで議論しようでないかと話を持ち掛けたのでした。ショパンにしてみれば真向対決ということだったのでしょう。。。

協奏協に関しては、ショパンはこの時、現在は2番と呼ばれるヘ短調を2回目の演奏会で初演したことになっていますが、ショパンが語っている1回目の演奏会の説明は、最初にアレグロ、そして続く、アダージョとロンドという順序に演奏したのならば、

これは協奏曲の現在の1番のホ短調のことになるのではないでしょうか。ショパンが作曲した当初は現在の第2楽章 ロマンスRomanze, ラルゲットLarghetto は、ショパンが語っているようにアダージョとショパンは名付けていたからです。ということは現在の1番はこの2回目の演奏会の後で作曲されたという説はつじつまが合わなくなるのです。この時、既にホ短調も出来上がっていたことになります。恐らくは2回目の演奏会もショパンは1回目で文句が出たため楽器を変えて(1番)ホ短調協奏曲を演奏したということになります。しかしながらポスターの印刷には(2番)ヘ短調協奏曲となっています‥。

その他、ショパンが言うように音の聴こえ方も座席や場所で異なることは確かにあったのでしょうが、エルスネルが後悔していたのは楽器の調整がなされていなかったことを知っていたにもかかわらず、エルスネルは見て見ぬふりをしていたことが後ろめたかったことをショパンは読み取っていたのでしょう。

ショパンが言うように1830年当時モフナツキがロシアの圧力の下でショパンに酷評を書くようになっていたことは、その後のショパンの音楽家人生をも左右していくことに繋がっていった大きな要因と言えます。

モフナッキは評論でショパンは2回目の演奏会で協奏曲のロンドを演奏したことをポプリに加えて書いていました。それに続けて最後には酷評を書かされたのです。

つまり、ポスターはへ短調協奏曲となっていましたがショパンはこの演奏会の後で作曲されたと見なされてきた、ホ短調協奏曲は既に作曲されていて、このとき演奏したのもホ短調協奏曲だったことになります。モフナッキはロシアの圧力に従うふりをしながらも、

検閲の目を逃れながら、事実も伝えようとしたと解釈できます。

元々はショパンを称賛していたはずだったモフナッキは2回もの投獄の後、11月蜂起に参加し、その後はパリに亡命しましたが、わずか31歳で亡くなっているのです。



1830年3月17日ワルシャワでショパンが出演した演奏会のポスターから(2回目の演奏会)




2コメント

  • 1000 / 1000

  • yu

    2020.01.03 07:25

    @うさぎうさぎ様 コメントありがとうございます。 ショパンに関してよく考察するよう心がけています。これからもよろしく応援お願い致します(^_^)v
  • うさぎ

    2020.01.03 07:15

    いつも読ませていただいています。ショパンはこの時代のパイオニアなのですね。とてもよく伝わってきました。(*`・ω・)ゞ

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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