ショパンとサンド一家の1846年のノアンの滞在は長かった。ショパンはフランショームに今書いている自分の作品はまだ完成はしていない、と語ったのが7月の初めのことであった。それから既にノアンの夏は8月だ。
サンドに収入がなく、ルドヴィカからの送金も途絶えたショパンは作品60、61、62、をこの夏のノアンで何が何でも完成させねばならないのだった。8月の中旬にはドラクロアがショパンを訪ねて来てくれた。サンドはその時の事を友人に語った。
「夏のノアンで、私たちは正午から午後6時まで忙しくしています。
その間、私たちは隠者のように黙って、それぞれの仕事をしています。それで、私たちの親愛なるショパンを精神的に抑圧しないように、彼の仕事の方法を整えることを考えています。 ショパン以外の人たちは、私たちの行いのすべてを軽視しています。
ドラクロアが1846年8月21日、私たちと数日間過ごして後に出発します。 ショパンはまだ作曲中です。
彼は何もする価値がないと主張していますが、傑作です。 。 。 。
私は仕事をしていません。密かな不安が私の心を蝕んでいます。」
ショパンは自分の作品は価値がないと、サンドに話していたのだ。しかし、サンドが音楽のことがどれだけ解ったのかは定かではないが、サンドがショパンの才能を信じていたことは確かだったことがサンドの言葉から伺えるのだ。しかし、長年一緒に暮らしたサンドとてショパンの天才ゆえの苦悩と孤独の心の奥底には入り込むことは到底出来ないのだ。
そして、8月19日
ドラクロワは8月19日付けで、ショパンいついてこう書いている。
「ショパンは私に神聖にベートーヴェンを演奏してくれた。
それは美学についての多くの話よりもはるかに優れていた。」
ショパンがドラクロアに弾いて聴かせたのは、自分の書きかけの作品ではなく、ベートーヴェンでした。ショパンはベートーヴェンを尊敬していた、そして、またショパンはドラクロアを尊敬していたからこそ、ベートーヴェンだったのであろう。
ドラクロアの言葉からドラクロアもまたショパンを尊敬していたことを垣間見ることが出来るのだ。
そのようにノアンの時は刻々と過ぎていた。ショパンとサンド…、サンドとショパンが出会ったのは1836年12月それから10年経とうとしていた。
ショパンとサンドの中でそれぞれ別の時間が流れ始めていた...。
ナダールによる肖像写真より
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (1798年4月26日イル=ド=フランス - 1863年8月13日パリ) フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
代表作 『民衆を導く自由の女神』1830年(ルーヴル美術館所蔵)
(2019.03.20 17:36~パリの音色とその余韻~ドラクロアとショパンに関する記事)
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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