F.CHOPIN、ショパン、最晩年の傑作へ挑む

5月の初め、パリのショパンの部屋でサロンパーティーを開催したサンドとショパンは、都会の喧騒から逃れるように例年よりも一足早くノアンに来ていた。5月の末にはサンドは金銭的なやりくりの目的と、ノアンの退屈な生活の気晴らしに、そろそろ客人を招きたいと思っていた。

ルドヴィカからのお金の支援がないのなら、ショパンとの生活はサンドにとって続けることは困難になってきていた。ルドヴィカがお金の支援とショパンのメンタル的なケアにノアンに来てくれないのなら、その代わりのパトロンにはワルシャワ時代のショパンの旧友でポーランド貴族のローラ伯爵夫人に支援を申し出たいとルドヴィカを通して伝えたサンドだった。

それから、ノアンの夏は7月になった。ショパンは弟子のロゼールがショパンにいくら献身的でも、ロゼールにはワルシャワの家族宛ての書簡の仲介役や雑用は任せられても、一番重要な自分の原稿のことや出版社との交渉は任すことができなかった。フォンタナもいない、グシマーワも怪しくなってきていた、そのため適任者がいないショパンは、友人のチェリストのフランショームに1844年頃からは出版社との交渉の仲介役を頼むしかなかった。

「親愛なる友人へ 

もっと早くあなたに手紙を書けなかったのは、何も考えていなかったからではなく、

僕の下手くそな原稿を同時に送りたかったからです。

[作品 60、61、62]は、まだ完成していません。そして、ここに手紙があります。

ブランデュス氏 [出版商のシュレジンガーの後継者]への手紙です。

あなたがこれをブランデュス氏へ配達してくださり、その上で、あなたが私に簡潔な返事をご親切に送ってくださることと思っています。 もし不測の事態が発生した場合、

同じ価格で提供しているマイソンニエへ交渉を変更しても構わないと思います。

親愛なる友人よ、私は仕事のために最善を尽くしていますが、私は立ち往生しています

。 このように、私の新しい作品62は、鳥のさえずり程度か、または壊れた陶磁器のような印象すらもないでしょう。

私は自分の運命の多くを受け入れなければなりません。 返事を書いてください。 。 。 、、

いつも変わらぬ私の愛を。フレデリック・ショパン」

ショパンはいつでも自分の作品に自信を持って来た、そのショパンがなぜか・・・、自分の作品の素晴らしさは君たちにはわからないであろう、そういう意味の皮肉なのか、ショパンは自分を貫いて来たのだ、自信がなくなったわけではないはずだ、きっとそうであろう。

そして、追伸としていつものように、相手の家族を気遣うショパン。

「フランショーム夫人への敬意と、ルドヴィカからの温かい挨拶。あなたの 親愛なる子供たちにキス。 サンド夫人があなたの奥様によろしくと申しています。」

フランショームはこの年、パリ音楽院の主任教授に就任していた、家族にも恵まれ順風満帆だった。そのフランショームに出版の交渉を頼むしかないショパンの心境は複雑だった。

ショパン、新しい作品は4曲あるがまだ完成してないとフランショームに話し、

値段交渉の駆け引きなのか。この時、本当は既に完成していたのかもしれない。

フランショームとはチェロソナタのことでショパンは何度も書き直しがあった、チェロソナタは46年に完成されたとされているが、実は完成は1845年の12月にルドヴィカに「うまくいった」と話し、

しかし「やっと完成したが出版にこぎつけれるかわからない」と不安を漏らしていたショパンだった。

1820年に公開されたギターメソッドの表紙

ジャン=ラシーヌ・マイソンニエ(1794 – 1856年8月19日)

(マイソンニエジューンとも呼ばれる)フランスのクラシックギタリスト、編曲、作曲家、フランスで有名な音楽出版社でした。

マイソンニエは、マルセイユで生まれました。

兄のジャン=アントワーヌ・マイソンニエ(1783–1857)は、ギタリストで主版も手掛けていました。マイソンニエは兄からギターを学びました。彼はギターの教師になり、その後パリのドーフィーヌ通り 28 番地で音楽商人コルボ―の事業を引き継ぎました。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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