F.CHOPIN、ショパンのパトロンとして名を馳せるサンド、娘のソランジュは親の思い通りにならず、金銭苦から若い芸術家への援助を絶つ


「ソランジュの具合は良くなりました。

私たちは長い旅を計画しています。

私たちは、冬の間イタリアで過ごすためにはお金が必要なんです。」

サンドはノアンで9月の中旬に詩人のルイ・シャン・ポンシーにそう告げた。

有名な芸術家の支援者としてパリで名を馳せていたサンドには、駆け出しの芸術家から援助を求めた申し出が後を絶たなかった。

しかし、サンドがパリで5月の初めに開催したサロンパーティーに来ていた政治家のルイ・ブランはルイ・フィリップ王の批判を1844年から行っていた。そのためサンドにルイ・フィリップからの援助が絶たれていたかもしれないのだ。そして、娘のソランジュにショパンと同い年のルイ・ブランとの政略結婚を企んだサンドだが、サンドの思惑とは裏腹にソランジュはこのパーティーに来ていた貧乏な彫刻家のオーギュスト・クレサンジェと恋仲になってしまったのだ。そのことで親子は揉め、ソランジュは恋煩いで寝込んでいたのだ。

サンドはこの時42歳になっていた。自分の作家としての活動も負債を抱えてからはぱっとしなかった。サンドは「私は仕事をしていません」と開き直ってしまっていた。ショパンとの生活や娘や息子のことだけで精一杯になってきていたサンドは金銭的に行き詰まっていた。

ルイ・シャン・ポンシーはこの時25歳の貧乏な青年だった。彼がサンドへ最初の詩集「海兵隊」を送りつけたのが21歳の時だった、自分をアピールしたポンシーだったが、サンドはポンシーの生まれを知り、ポンシーへ鉱山で働く労働者のための詩や簡素な曲を書くことを助言はしたが、お金の援助は出来なかった。サンドへルイ・フィリップからのお金の援助が絶たれたことも原因だが、いくら若くてもポンシーはサンドのタイプではなかったのであろう。

サンドが計画していたのは、確か、南フランスの旅であったはずだ、ポンシーにはイタリア行きと話し、「私たちもお金がたくさんかかるので、大変なんですよ」と遠回しにポンシーへの支援を体良く断ったサンドだった。

それから、月は変わりノアンは既に10月になった。サンドとショパンのノアン滞在が5月初旬からとして、

それからもう10月で半年経過することになるのだ。長いノアンの滞在だ。

ノアンに居てもショパンはワルシャワの家族を忘れた日は一日たりともなかった。家族宛ての書簡は姉のルドヴィカへ宛てて書いていたショパンだった。

「ノアンにてショパンより。

僕はピアノの近くの小さなテーブルでこの書簡を書いています。

僕はこの書簡を10回も書きました。

そしてついに本日発送します。

この家の女主人からのルドヴィカへの追伸も同封します。

私の愛する人へ…、つづく…」なんということか、ショパンは2階の自分の部屋の机ではなく、1階のサロンにある壊れたプレイエルピアノの横に壁付けにある小さなコンソールテーブルで手紙を書いていたのだった。

広い部屋の隅っこでショパンはサンドの監視の下で書いたのだった。

しかも、10回も書き直しをしたとは、サンドに書き直しさせられたことをショパンはそれとなくルドヴィカに伝えた。

フレデリックの最愛の姉ルドヴィカへの書簡はそのような前置きから始まったのだった・・・

ルイ・シャン・ポンシー(1821-1891)詩人


 フランス南東部のトゥ―ロン出身の彼は石工職人の息子でした。

彼は9歳で父の仕事の石工で働き始めました。劇作家のジャン・バティスト・ラシーヌ(1639年12月21日‐12月22日)を読むことは彼に詩の趣味を与え、彼はその影響で詩を書くようになりました。彼の最高の詩集である海兵隊は、トゥーロンの住民によって組織された公共購読のおかげで出版されました。彼はこの詩集をジョルジュ・サンドに送りました。彼女は、この若い詩人労働者の才能に関心を抱き、彼へアドバイスをしました。彼は詩人ベピエール・ジャン・ド・ベレンジャー(1780年8月19日-1857年7月16日)から励ましを受けました。彼は1848年まで石工の貿易で生活をしていました。彼は1848年の憲法制定会議の候補者として失敗した後、トゥーロン商工会議所の秘書として働き、治安判事の代理の役職を得ました。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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