F.CHOPIN、数学教師ファーバーの発明、そして気になる妹イザベラの夫バルチンスキ

ショパンが生きていたこの頃、イギリスは1830年代の産業革命を経て世界は発明の時代でもあった。

ショパンは、自分と歳が変わらないルヴェリエ氏の海王星の発見のニュースに続いて、音楽の分野に関係した発明をルドヴィカへ話した。

「しかし、発見といえば、僕の専門分野に関係のある発見のことを話さなくてはなりません。ロンドンでは、機械に興味を持つファーバー氏(数学の教師)が、一言二句ではなく、長いフレーズを非常にはっきりと発音する「ユーフォニア」という非常に面白い自動機械を発表しました。

更に、この機械は、ハイドンのアリアと「女王陛下万歳」を歌うのです。

このようなロボットを大量に手に入れることができれば、オペラ監督は費用も手間もかかる合唱のために歌手なしでやっていけるようになるのです。

レバー、ふいご、バルブ、チェーン、パイプ、スプリングなどによってでそのような結果が得られるとは、なんと不思議なことでしょう!

以前、食べたものを消化する ヴォーカンソンの機械式アヒルの話を書きました。ヴォーカンソンはフルートを演奏するロボットも作りました。

しかし、それまでは

今まで、「女王陛下万歳」と歌う機械はありませんでした。この "ユーフォニア "は、バルチンスキが知っているように、この2ヶ月間、ロンドンのエジプシャン・ホール(ピカデリー)で展示されていました。このホールは様々な好奇心をそそる展示が行われている場所です。」

ショパンは若い頃から機械に興味があった。それもそのはず、ショパンはピアノの開発に興味を持っていたからだ。ロンドンへの旅行もプレイエルピアノの開発のためにプレイエルの息子と共に最先端だったイギリスのピアノメーカの視察であった。

オペラの曲をたとえ書いたとしても、上演するにはお金がかかり過ぎることで諦めかけていたショパンだったためか、合唱団がいらないであろうこの自動機械の発明を肯定的に捉えていたようだった。

ショパンは作曲の技法を網羅して、ショパンは楽譜を手で書き、そこから曲に生命を吹き込み演奏し創造していたが、ショパンはさまざまな分野に関心を持っていた。

すべてが手作業の時代を生きていたショパンだが、きっとルドヴィカへ書ききれないほど、たくさんのアイディアがあったのであろう。お金の苦労が尽きないショパンは、なんとかしてお金を生み出すことを考えていた。自然と対話するかのような魂を揺さぶられる曲を生み出していたかと思えば、ショパンは産業革命に関心を持ち将来を見据えていたのだ。

それにしても、妹イザベラの夫バルチンスキの名前が出てくるのはなぜか、「バルチンスキは知っていると思うけれど」なぜ、バルチンスキはこの発明の展示会を知っていたのか。ショパンはどうしてルドヴィカに話したのか。。。

これを発明したファーバー氏は数学の教師であった、バルチンスキも数学の教師なのだ・・・・・

バルチンスキはショパンの少年時代の数学の家庭教師でもあった。バルチンスキの専門分野は哲学と数学、工科大学で教鞭を執っていたこともあった。パリ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアそしてスイスで科学の研究員として派遣された経験があった。

そして、作曲家としてのショパンを支え続けてきたワルシャワの家族。イザベラも重要な役割をショパンのために果たして来た。ショパンの手稿譜の写譜もイザベラとルドヴィカで手伝って家族でフレデリックの曲を守って来た。ショパン家は愛情深い家族であったがフレデリックに支援するお金に父ニコラスが亡くなって以来困っていた。

ジョセフ・ヘンリー(1797年12月17日アメリカ・ニューヨーク - 1878年5月13日アメリカ・ワシントン)

アメリカの物理学者。スミソニアン協会の初代会長。

イギリスのマイケル・ファラデーとほぼ同時期に電磁誘導(相互誘導)を発見したが、ファラデーの方が先に発表した。

電磁石を研究する過程で自己誘導という電磁気の現象(コイルに逆起電力が生じること)を発見。電磁誘導(インダクタンス)のSI単位ヘンリーに、その名をとどめる。また継電器を発明し、サミュエル・モールスやチャールズ・ホイートストンが電信を発明する基礎を築いた。

1845年、スミソニアン研究所の初代所長であったジョセフ・ヘンリーは、ファーバーの発明を見るためにファーバーの工房を訪れました。自身も著名な科学者であったヘンリーは、発明が正当なものかデマかを判断するよう要請されました。彼はファーバーの発明に多くの応用の可能性を秘めた素晴らしい発明と評価した。

ジョセフ・ファーバー(1786年ドイツ・フライブルク・イム・ブライスガウ-1866年ウィーン)

オーストリアの 数学者、天文学者や発明者。1840年に導入された彼の等身大の言語マシンユーフォニアは、19世紀の技術の歴史の奇妙な発明の1つでした。

この装置は、16個のキーを備えた入力キーボードで構成され、喉頭と舌で蛇腹駆動の人工咽頭管を制御して、文章を生成したり、歌を歌ったりしました。


ジョセフ・ファーバーは1786年頃にフライブルクで生まれましたが、子供の頃にウィーンに来ました。

彼は工科大学で、数学と天文学を学び卒業しました。

彼は兵士としてオーストリア軍の大砲に参加しました。それから地籍事務所で会計士として働きました。

そこでで彼は精神病が判明し、それは心気症と解釈されました。医者は彼に規則正しい活動を推奨した。土地登記所の彼の雇用主であるフォン・ファロン将軍は彼に1年の休暇を与えた。

おそらく1823年ごろ、フェイバーは、ホフラス・ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの出版物に出会い、その中で彼は自分の興行成績を説明した。そこで、同じような大きさの、話せる機械を作ろうというアイデアが生まれた。雇い主はファーバーの考えを思い付き、彼自身も気が狂ったようになり、フライブルグに引っ越したときの給料を、裕福な環境に住む姉の分まで減らした。フライブルク大学で病理学研究所に入り100以上の死体の頭蓋骨を分泌して人間の声を調べた。12年後、最初の原型が立ちました。この装置は、ドイツ語のすべての子音と母音を発生することができましたが。さらに三年間これも成功し、ファーバーは15年ぶりにウィーンに戻って装置を発表した。彼の故国では、彼は以前よりももっと狂っていると思われていた。

1845年12月の初めにファーバーはフィラデルフィアのミュージカル基金ホールで実演しました。しかし、彼は財政的支援を獲得しませんでした。1846年のロンドンは、装置がイギリスの国歌「神は女王を救う」を歌うことができ、商業的な注目を集めましたがあまり評価されませんでした。ジョセフ・フェイバーはおそらく1866年に自らの命を絶ちました。







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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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