2019年2月6日記事から【ショパン、少年の日の思い出とパリで】お届けします

パリに来てから2回目の引っ越しをしたショパンだった。
その頃、ショパンが書いた作品はマズルカ作品17、夜想曲15の3、そして協奏曲ホ短調、練習曲作品10出版された。
少しはパリに慣れて来たかのように見えたショパンであったが、やはり思い出すのはワルシャワの少年時代の友人のことだった。
ドミニク・ヤン・ヘンリック・ジェヴァノフスキは、ショパンのワルシャワ時代の音楽学校で2年間同じクラスで勉強した友人だ。
彼はショパンと同じチェコ人のジヴニー先生に習っていた。ショパンは彼の事を親しみを持ってドムシと愛称で呼んでいた。
1824年と1825年フレデリックはドムシの邸宅のある田舎のシャファル二ャでドムシの家族と夏の間の休暇を過ごした楽しい思い出があった。
ショパンはその頃のことが懐かしくなりドムシのことを思い出したのは社交界に出入りするようになってきた1833年の1月のことだった。
ドムシは1828年法務学部で法学を学んだ後、ワルシャワ王立大学の哲学科で数学を学んだが、ワルシャワの暴動に参加したひとりでもあった。その後は、ドムシはベルリンに行き勉強を続けていた。
パリに来てからというもの、さまざまな困難に苛まれていたショパンであったが、ショパンは、望むも望まないにも拘わらず、いつの間にかショパンは社交界に出入りをする有名な音楽家になっていた。は
ショパンは自分からしゃしゃり出る性格ではないため、ショパンは自分でもわからないが好転機が訪れたのだと思うようにしていた。
しかし、依然としてショパンにはパトロンと呼べる人はいなかった。なぜなら、フランスで一番古い貴族であるモンモランシ家が絶滅したのだった。
7月革命後のフランス人の王のルイ・フィリップの1番目の愛人(モンモラン家の末裔)が亡くなった、その愛人はロスチャイルド家の夫人やポーランド貴族のポトツカ夫人に噛みついていつも愛人の順位を争っていた。
ショパンは最高に有名な上流階級の夫人たちと社交界で知り合ったが、自分の作品が献呈されることがあっても、上流階級の夫人から自分には何一つとして献呈されることはないとことに不満があった。
そして、ショパンに嫉妬していたピクシスは自作の軍楽隊のための変奏曲にショパンの名前を付けた。また、ショパンを裏切っているカルクブレンナーはショパンのマズルカを主題にして変奏曲を書いていた。
また、ショパンを冷遇した音楽院や、モシュレス、エルツ、カルクブレンナーの弟子も
ショパンの曲でレッスンをするようになり、ショパンの名をフィールドの継承者として紹介していた。何事も都合のいいようにショパンを使う悪党ども(ショパン曰く)だった。
ショパンは社会的には以前よりも順調に見えたものの、ショパンの内面は子供のように得意げになる時もあれば、攻撃されることを恐れ不安になる時もあり不安定だった。
ショパンはこの日、ロスチャイルド家の令嬢など5人のレッスンをした、世間ではショパンは儲かっているかのように見えたが、社交のためのほろ馬車や白い手袋にかかるお金はレッスンで得るお金を上回っていた。そのため、ショパンは全く持って金持ちになれなかったのだ。ショパンは嫌々、上流階級の夫人や令嬢のご機嫌取りのために演奏したりレッスンすることが苦痛だったのだ。そのことを少年時代の友情の絆があるドムスに打ち明けたのだ。
ショパンは「ルイ・フィリップの連中は本当は僕は嫌いなんだ、なぜなら僕は革命家だから。僕は金よりも友情をとる。だから自分のことを忘れないでほしい。ドムスと僕は友情あるのみだ」ショパンはドムスに強く誓った。
ドミニク・ヤン・ヘンリック・ジェヴァノフスキ(1811 - 1881年) 弁護士、ポーランドの
シャファル二ャとジアズウィンの領地の所有者の貴族の息子。
1828年ワルシャワ王立大学哲学科で数学を学ぶ。
1830年の11月蜂起に参加、その後ベルリン大学で学ぶ。1833年にポーランドに戻る。5年後に彼はシャファル二ャに恒久的に定住。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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