2018年12月6日記事から【ショパンと馬車】をお届けします

ショパンはポーランドの少年時代にコンスタンティン大公の邸宅ベルヴェデル宮殿などに呼
ばれては演奏をしていた。その時、覚えた上流階級の生活を、パリに移ってからも召使を雇
ったり、自分の馬車を持つなど当時の音楽家の地位から考えると贅沢をしていた。
ポーランドの統治者コンスタンチン・パヴロヴィチ大公は、エカチェリーナ2世の孫。
女帝は孫の教育をサルトゥイコフ伯爵に一任。やんちゃで落ち着きが無く、わがままな皇子となった。
エカチェリーナ2世は1796年、16歳のコンスタンチンをザクセン=コーブルク=ザールフェル
ト公の三女で14歳のアンナと結婚させた。結婚生活は苦痛でしかなく破綻1799年別居、そし
て1801年アンナは実家に帰ってしまった。
コンスタンチンは1814年に妻を連れ戻そうとしたがアンナの抵抗にあって引き下がた。
1815年兄のロシア王のアレクサンドル1世がコンスタンチンを自分の創設したポーランド会
議王国の事実上の副王に任命。どんな手段に訴えてでも会議王国の秩序を守り抜くように厳
命、そんなコンスタンティン大公の邸宅ベルヴェデル宮殿になっていた間、1818~19年に、
何度かショパンを宮殿に招いて演奏させ一躍有名にした。
大公は唯一ショパンの演奏のみは彼の気を静められ、何時間もショパンのピア ノ演奏に耳を
傾けた。
大公は日曜日ごとに馬車でショパンを迎えに行かせショ パン少年にピアノの演奏をさせた。
ショパンがパリでサロンに出入りしたころ召使を雇い、自家用馬車をもった、
音楽家は、サロンの裏口からしか出入り
を許されなかったが、ショパンは自家用馬車を乗り
つけ、玄関から出入りをしていた。ロッシーニでさえ裏口からしか出入りできなかった時代だ。
ショパンの父二コラは、フランス革命の前年にフランスから家族をフランスに残してポーラ
ンドへ移った。父ニコラはポーランドに来てからショパンと名乗るようになった。
ショパンの祖父の職業は馬車を作る大工であったことは事実のようだ。
現在ワルシャワでは、観光用の馬車が走り、ショパンの生きた当時にあった馬車の定期バスも一部復活して市内を走っている。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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