1831年の年が明け、ショパンはワルシャワのマトゥシンスキからの手紙を受け取っていた。
医師のマトゥシンスキは第5騎兵狙撃連帯に軍医として配属されたことをショパンは知らさ
れた。
フルート奏者でもあるマトゥシンスキはその嘆きをフルートの音色に託しているであろうと
ショパンは想像し、ショパンも言葉に出来ない悲しみをピアノに託した。
ショパンはウィーンには、もう希望が持てなかったため、イタリア行きを断念し1か月後
までにはパリへ行こうと思っていた。
ワルシャワ時代のころから交流があった医師のヤン・カロル・イェジスワフ・フレイェル
もウィーンに留学していたが11月蜂起の知らせを受けてワルシャワへ帰国することになりポ
ーランド軍への入隊を志願した。
ワルシャワ時代の頃から、ショパンとマトゥシンスキとフレイェルの3人は深い友情で結ば
れていた。
友人がポーランドで戦っていることにショパンは心を痛めながらも彼はワルシャワに帰るこ
とは許されなかった。彼には音楽があった、ショパンはペンと五線譜とピアノでポーランド
への想いのすべてを世に残す使命があった。
ウィーンに一緒に来ていた友人のティトゥスもワルシャワへ帰り戦争に加わった。
その頃、ウィーンに残ったショパンは、宮廷医師のヨハン・マルファッティの自宅に招かれ
たり、レオポルトシュタット劇場の支配人でルドルフ・ステインケレルと面会したりと社交
が尽きないショパンであったが心の寂しさが埋まることはなかった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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