F.Chopin、「私がどんなに彼女を好きか…」姉ルドヴィカだけが知るフレデリックの本心、これは裏返しか、ショパンの才能を実は妬んでいたポトツカ


ショパンはポーランドの家族への書簡の続きをパリのアパルトマンで何日もかけて書いていた。
「私の主治医のアルバートが言ったように具合が悪いときには書いてはいけない。」それは僕の39歳が厄年です。 けれど今年は厳しい寒さにもかかわらず、それほど体調は悪くありませんでした。」
ショパンは姉ルドヴィカへ書簡を書き出すと夢中になり会えない時間を埋めるかのように
説明が長くなるのだ。それを医師に止められていたのだ。気にしながらも休み休み、
何日もかけて書簡を書くフレデリック。。
「私はまだリスセスカ伯爵夫人に会っていません。
デルフィーネ・ポトツカ夫人、
(私がどんなに彼女が好きかあなたは知ってるでしょう)ポトツカ夫人とリスセスカ夫人は一緒にパリ来ることになっていましたが、彼女(ポトツカ夫人)は数日前にニースへ向かいました。
彼女がパリを出発する前に私はフランショームとチェロソナタを演奏しました。」
リスセスカ伯爵夫人はポーランドの貴族出身と名乗っていたが1845年にオーストリアの伯爵夫人の称号を受け取りリスセスキと名乗っていた。
そして、デルフィーネ・ポトツカ夫人もショパンがポーランドの頃からのパトロンだ。
ポトツカ夫人もパリに亡命して来ていたが、裕福な彼女はニースへ向かった。
問題のフランショームとのチェロソナタは
1カ月程前に(家族以外には、アラゴとドラクロワしかいません。フランショームと二重奏をしますから)とグシマーワに演奏を聴きに来て欲しいと頼んだショパンだった。
実はこれは、根回しのリハーサルでもあったショパンなのだ。
この1カ月後にパトロンを招いてチェロソナタを披露したショパン。
ショパンのこの先の行き先が決まるとも言えるパトロンを招いてのサロンだったが、
ショパンはポトツカ夫人からのニース行きの誘いを断ったのだった。
そしてパリ音楽院の教授になったフランショームに苦しめられて来たショパン…何度も書き直しを重ねたチェロソナタをやっとお披露目出来たのだった。
「私はその晩、彼女のほかに、ヴュルテンベルクの王子と王女(チャールズ皇太子夫妻)とサンド夫人を迎えて、心地よい暖かい雰囲気の中で過ごしました。」
ショパンはヴュルテンベルクの皇太子夫妻を招いたことをルドヴィカへ誇らしげに語った。

アリ・シェフェールによるデルフィナ・ポトッカの肖像画から 1840年
デルフィナの父親の名はスタニスワフ・コマル、母親はホノラタ・オルウォフスカだが、その他詳しくは不明、
デルフィナは、元はポーランド貴族だったが1825年にロシア側に付いたスタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ伯爵の息子の、ミェチスワフ・ポトツキ伯爵と結婚した。
1830年11月蜂起の時、両親とパリへ亡命しポトツキ伯爵と離婚。
離婚はしたが、ロシア側である元夫の
ポトツキ伯爵からパリに居るデルフィナは年間1億円ものお金を支給されていた。
ポトツカはサンドと仲間になりパリで知られるようになる。パリで彼女はショパンに習うがショパンの才能には及ばない彼女はショパンに嫉妬していたという説がある。また彼女はポーランド・ロマン主義の詩人ジグムント・クラシンスキ伯爵に近づき愛人になった。ジグムント・クラシンスキ伯爵の父親は11月蜂起後ロシア側に付いていた。
この3人は、アダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォヴァツキとともに「ポーランド・ロマン主義の三大詩人」である。
3人はショパンのポーランド時代から交流がありワルシャワの半地下の喫茶店に集まっていた。
パリに亡命したデルフィナはアリ・シェフェールやドラクロワなど画家と親交を深めた。
1825年に結婚したデルフィナの二人の娘は幼い頃に亡くなっている。
離婚後、1830年11月、ショパンがウィーンに向かう途中、ドレスデンでデルフィナの両親の居る家に招かれた。彼女は1831年にパリで再びショパンと再会しオーストリア大使館でのショパンの音楽を紹介した事があった。
(次回へ続く)

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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