2019年7月17日記事から、【フレデリックの心はパリの亡命者と共にあった】をお届けします

時は、1845年に移った。ステファン・ヴィトヴィツキへ書簡を書こうか1週間悩んだショパンは、やっとの思いで筆を執った。
ステファン・ヴィドヴィツキは、ポーランドの政府委員会で宗教と教育に携わって来たが、11月蜂起以後の1832年にパリに亡命して来ていた。そのステファン・ヴィドヴィツキへショパンが何を悩んで書いたかというと、パリのポーランド亡命者がロシア皇帝のニコライ1世に謝罪の手紙を書いてロシア帝国に屈したというのだ、ショパンはそのことを嘆かわしいとヴィドヴィツキに書いた。
そして、アダム・イエジィ・チャルトリスキは、ポーランドの貴族で帝政ロシアの外務大臣を務めたことがあったが、11月蜂起後成立したポーランド国民政府の首班となるが、11月蜂起の敗北後、1万人のポーランド人とパリに大亡命をして来ていた。チャルトリスキは、毎年のようにパリでポーランド人亡命者の集まりの復活祭をチャルトリスキ邸で行い、そこでポーランド詩人のアダム・ミツケェビッチが亡命者に講演を行って来たが、それがもう出来なくなったとショパンはヴィドヴィツキに伝えたのだ。
ポーランド亡命者の脱落により、アダム・ミツケェビッチの講演に人が集まらなくなったのだ。
それから、リトアニア人のアンジェイ・トマス・トヴァンスキは11月蜂起後もロシア帝国に仕えていたが、パリの亡命者のコミュニティに入り込んでいた、そのため、
、ミツケェビッチと対立が起こり、亡命者のメンバーからロシアの代理人であると非難の声が上がり亡命者の中での分裂が起きていた。ショパンはそのことを
ステファン・ヴィドヴィツキに情けない状況だと伝えた。
「…彼らは(亡命者)公証人のところで謝罪文に署名をしてしまったのだ。…実際に彼らはロシア皇帝の奴隷になったのです。
それは、子供のためではなく、自分だけの人生が奴隷になったということです。
あなたはこの狂気を想像できますか?…」
謝罪をしたから許されるということではないようだ、家族はバラバラになり、過酷な人生を歩むことになるのだ、そのことをショパンは狂気だと嘆いた。
ショパンは、その後、音楽院の演奏会の話をステファン・ヴィドヴィツキに書いた。
「申し訳ありませんが、あなたはドラクロワと私たちと一緒に音楽院に来ることはできません。
今夜はハイドンの≪創造≫を鑑賞します。今年は2度目のコンサートになります。
2日前にはモーツァルトの≪レクイエム≫が演奏されました。グロトヴィスキは、あなたの書いた詩に私が書いた曲で歌います。(作品74-1から5、7、10、14、15)…」
ショパンはステファン・ヴィドヴィツキに君は音楽院の演奏会に来ない方が身のためだと話した。この時、実際に演奏があったかは不明である。ショパンはそれを見越して
グロトヴィスキに来ないように事前に伝えたのだった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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