それは、あっけない幕切れだった。
ショパンはサンド一家との不自然な偽装家族生活に決定的な終止符を打った。
ショパンはサンドを失うことは随分前から覚悟をしていた、ただきっかけが欲しかった。ショパンにしてみれば、その時がやっと来たのだ。
どちらが先に別れを切り出すか、すれ違う感情は日に日に膨らみ積もっていた。それが、ソランジュとその結婚相手であるクレサンジュの金銭問題、そこにサンドが溺愛する息子モーリスが絡み合い、
ついに、ショパンが9年間の思いをサンドに告白し、サンドから終わりを告げたのだ。ショパンは常に冷静で客観的にサンド一家を観ていた。
その冷静さがサンドの感情を一層逆撫でするのだ。下僕ショパンからの忠告にノアンの女王サンドのプライドは… ……。
さて、47年のこの夏、サンドはショパンとソランジュが仲がいいことや、ショパンが自分を女として見ていないことへの腹いせに新しい恋人をノアンに招き入れていた。ショパンが来ないことをいいことに、ジャーナリストのビクター・ボリーと
夏のノアンを過ごしていた。ボリーはサンドと44年から親密な関係になっていたことを
ソランジュがショパンに暴露するであろうとサンドは恐れ、どうにかしてショパンをノアンから追っ払うことを企んでいたサンドなのだ。
ボリーはこの時29歳、サンドは43歳、サンドはショパンより若いボリーを従えてショパンへの報復なのだ。
サンドはボリーとのことが遅かれ早かれショパンの耳に入ることは、ショパンと自分が気まずくなることくらいは分かっていて恐れながらも、ショパンが知ったときのショパンの顔色を想像すると気分が良くなる自分がいることがたまらなく快感なのだ。
ボリーとサンドの仲のことは、ショパンはソランジュかロゼールから聞いたかは不明なのだが、ショパンの心は既にサンドから離れていたのだから、たとえサンドの新しいツバメがボリーでもショパンは驚きはしなかった。
それよりも、サンドとソランジュ、そしてクレサンジュとモーリスの金の奪い合いの騒動に巻き込まれることにショパンはうんざりしていたのだ。
ショパンはついに、クレサンジュとソランジュのこと、母親失格のサンドへの最後通告
をパリからサンドへ書簡を書いてノアンへ送った。
「私はあなたとクレサンジュ君について議論するつもりはありません。
まさにクレサンジュ君の名前は、あなたが私に紹介するまで私の頭の中にはなかった名前です。あなたの娘さん(ソランジュ)を彼(クレサンジュ)に渡したのはあなたですから。
彼女(ソランジュ)に関しては、私は彼女に無関心でいられないのです。
あなたは覚えているはずです。
私は、あなたがたの子どもたちのために、
好き嫌いではなく平等に、あなたと子供達の間を取り持って来ました。
私は機会ある事に、いつでもそうして来ました。子供たちを常に愛することがあなたの母親としての運命です。それが母親の
変わることのない唯一の愛情というものだからです。
不幸が影を落とすことがあっても、その性質を変えることはできません。
この不幸をあなたが止めることができるとしたら、
最初に娘さんの話を聞く心をあなたが持たなくてはなりません。
女性としての彼女の実生活、まさに彼女の身体的な状態は今まで以上に母親の世話を必要としているのです。
そのようなことに直面したとき、
あなた方の最も神聖な愛情にかかわる個人的な現実は、私は黙って見過ごさなければならないのです。
私は相変わらず待ちます。
あなたに最も献身的なショパン」
ショパンは母親と娘が憎しみ合ったとしても、母と子の普遍的な関係を変えることは出来きない、と発言し、母親としての有るべき姿をサンドに語った。その上で、ショパンは親子の神聖な愛情に関わる個人的な事については、これ以上は自分が介入すべき問題ではないため、サンド自身が母親としての使命を果たすべきだとした。
ノアンでこの、ショパンからの通告を受け取ったサンドは直ぐに返事を書いた。
「……彼女(ソランジュ)の面倒をあなたは見てあげてください。
あなたが自分を捧げなければならないと思っているのは彼女(ソランジュ)なのですから。
私はあなたを恨みませんが、
私は憤慨した母親の役を演じる権利を維持するつもりです。
私の役割の権威と尊厳を軽んじることはできません。騙されたり、犠牲になったりするのはもうたくさんです。
あなたは心からの告白をしたのですから、これからはあなたへ非難の言葉を私は一言も発しません。
しかし、もしあなたがこの告白をしたことで、心が解放され、楽になるのであれば
私はこの奇妙な転向に苦しむことはありません。
さようなら。私の友人。
あなたの病気が早く治りますように。
私はそう願います。
そして私は、9年間のこの独占的な友情に、この奇妙な終止符が打たれたことを神に感謝します。
あなたがどうしているか、時々は聞かせてください。
他の問題は議論しても意味がありません。
ジョルジュ・サンド」
サンドのこのショパンへの返事は、なんとも残念な書簡だった。
ショパンの意図はサンドには全く伝わらなかった。サンドが分かったのは自分の虚栄心が挫かれた悔しさだ。
ショパンに意見されたことへの怒りは永遠に消えないことをショパンにサンドは宣言した。
ショパンは社会的な客観性を持って書いているのに対して、サンドは、ショパンが選んだのは自分ではなく、ソランジュである、とあくまでもサンドはソランジュの母親としてではなく、ひとりの女として腹を立てているのだ。
そのくせ、母親としての権威と尊厳を侮辱されたと主張するサンドなのだ。
これでは、ショパンとサンドは永遠に噛み合うわけがないのだ。
…こうして、ショパンとサンドの長かった9年間のノアンとパリを行ったり来たりする
二重生活は遅すぎた終止符を打ったのであった。
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F.CHOPIN、ショパンを訪ねて来たのは、サンドの新恋人ボリー
2021.01.31 記事から
アレクシス・ピエール・ビクター・ボリー
(1818年9月11日フランス中央部コレーズ県ヌーヴェル=アキテーヌ地域チュール地区-1880年7月6日パリ:モンパルナス墓地)
国籍フランス
未婚の恋人:ジョルジュ・サンド
受賞レジオンドヌール勲章の騎士(1863)
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アレクシス- ピエール-ビクターボリーは1818年にコレーズ県チュール地区に生まれた。ピエール・ルルーによってレクレアウルドゥリンドル (1844)の創設に連れてこられてノアンに来ました。 彼は1847年執筆に専念するまで編集者でした 。報道犯罪で起訴された彼は、ベルギーに亡命し、1852年に刑期に戻るために戻ってきました。
彼はオデオンのディレクターの娘と結婚する前にいくつかの新聞で働き、ジャーナリストとしてのキャリアを築きました。路面電車会社の管理者になり、パリの第6地区の市長になりました。
ジョルジュ・サンドはボリーの父親と親交があったが、
ショパンとサンドが別れる前の年1846年から既にボリーはジョルジュ・サンドと政治活動を開始し恋人の仲でした。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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