2019年12月22日記事✳︎プロデューサーカット✳︎お届けします

振り返れば、ショパンは1841年の4月26日にパリのプレイエルのサロンで王族や貴族、友人のハイネ、リスト、ドラクロワ、ミッキェヴィチ、ヴィトフィツキそして、フランショームを招いて演奏会を開いたとき、リストの愛人ダグーがサンドとショパンの悪口をリストに宛てて書いていたことを、ショパンはリストから聞いたのかもしれない。
リストはショパンとサンドに嫉妬するダグー・マリーに翻弄されながら音楽家としての活動をして来たが、ダグーのしつこさについに嫌気がさして1844年にダグーとの10年間に及ぶ同棲生活についにピリオドを打っていたのだ。ショパンに会いに来たのは、その1年後の1845年の12月もクリスマスを迎えようとしているパリでのことであった。
リストのショパンのアパルトマンへの訪問は、ダグーと別れたリストが新しいパトロンを探していたというわけだった。
リストがワルシャワ演奏旅行で知り合ったポーランド貴族の若いカレルギス伯爵夫人は芸術家のパトロンであった。彼女は、ドイツ人貴族とポーランド人貴族の両親の下に生まれた
ハーフだった。彼女は幼少期に両親が別居、6歳でサンクトペテルブルクの父方の伯父カール・ロベルト・ネッセルローデ伯爵の屋敷に引き取られて養育された。伯父は1814年からロシア帝国外相を務めていて、マリアはこの伯父の監督下で教育されて育った。
ショパンは、11月蜂起以前のワルシャワに居た頃にマリアを教えたことが数回あったのだ。ショパンが彼女を褒めたのもロシア皇帝に逆らえないからであったのだ。
彼女の結婚生活は不幸であったがお金の苦労は何一つなかった。結婚生活に退屈していた彼女は、リストにもカレルギス伯爵夫人としてお金の支援の「うまい話」を持ち掛けたのであった。しかし、リストはダグーとの長い長い陰陰滅滅な下部としての生活に終止符を打ったばかりで、さすがのリストも女に懲りていた頃であった。
カレルギス伯爵夫人のことをショパンに聞き合わせに来たリストはパトロン探しは慎重になっていた。
リストはショパンからカレルギス伯爵の情報を得て、このロシア寄りのポーランド貴族だが
富豪の芸術家のパトロンのことは抜け駆けしないように約束したのだった。
さて、1845年のパリのショパンは41年からこれといって華やかな演奏会もなく、ショパン自身がダグーとリストに邪魔され懲りていたこともあったが、今だに公の場で演奏することもなかったショパンだった。
ショパンは12月中に出版に漕ぎ付けられるかわからない曲を幾つか抱えていた。
1年以上前から取り組んでいた「チェロソナタ」は何度もフランショームと会って試し、なかなか完成が見られなかった。ショパンはフランショームのチェロパートを何度も試行錯誤した。そのチェロソナタがやっと完成したのであった。
ショパンはチェロソナタの完成を「フランショームの家でフランショームと会って試しました、うまくいきました」と一番最初に、姉ルドヴィカに報告したのでした。
しかし、ショパン自身は1845年に完成したとしていたこの作品は1846年の完成となり、出版は苦労が伴い1847年になる。邪魔をしていたのは実はショパンが友だと思っていたフランショームだったのでした。そして、フランショームはメンデルスゾーンと交流していました。ショパンを快く思っていないメンデルスゾーンはフランショームからショパンが書いている作品の情報を得ていました。ショパンは、ダグー、そしてメンデルスゾーン、シューマン、の心ない中傷に合い苦労が絶えなかったのでした。メンデルスゾーンが亡くなる1847年になってショパンのチェロソナタはやっと出版されるのでした。。。シューマンとメンデルスゾーン、このふたりの共通点は精神を病んでいたのでした。
1845年のパリのクリスマスのことだった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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