2019年1月24日記事∮プロデューサーカット∮お届けします

パリに来て(1831年)最初にショパンが住んだ場所は、プールヴァール・ポワソニエール27番地、
美しいマホガニーの家具付きの5階にある小さな部屋だ。
小さなバルコニーからは、美しい並木道の歩道が見え、モンマルトルからパンティオンまで
が一望できる眺めだけは自慢の部屋だ。
ショパンはその小さな部屋から夕暮れ時の美しい景色を眺め、父や姉からの手紙を読み、
楽譜を書いたりと創作活動に励んだ。
パリに来たばかりのショパンは、カルクブレンナーと良い出会いをしたと思っていが、
3年間カルクブレンナーの下で弟子として修業をすることには納得できないショパンであった。
父ニコラも3年はひどい仕打ちだと思っていた。
なぜならショパンはすでに演奏技術も熟達しており、親のひいき目ではなく、
音楽的な理解もショパンは進んでいるため、ニコラは、どう考えてもカルクブレンナーの
言う3年間はショパンへの嫉妬であり、カルクブレンナーがショパンの才能を邪魔しようとしていることは疑う余地がなかった。
思慮深い父ニコラは、ショパンの進歩の妨げになるような人物に関わらぬようショパンに忠
告した。ショパンのワルシャワ時代のエルスナー先生も同じ意見を持っていた。
エルスナーは確固たる教育理念を持つ人でショパンの才能と人柄をよく理解していた。
教育者としての誇りを持ち、才能ある弟子を自分の弟子として引き留めておくようなことは
しなかった。才能ある者が将来自分で自分を乗り越えて行けるようにする為、教師はその妨げになっていけない、
弟子には教師の好みを押し付けてはいけない、芸術とは模倣ではなく個々の個性と経験から生まれ、
それを自然に発展させ導く道を示すことが教師の役割であるとエルスナーは考えていた。
故に、ショパンが3年もの間カルクブレンナーの下で修業をさせられることを、カルクブレンナーには考えを改めてもらいたいとエルスナーは考えた。
エルスナーはショパンの性格もよく把握していた、ショパンは、全くうぬぼれがなく、
出しゃばらず、素直な性格なため、すぐに人の意見に影響されやすいところがあることを
エルスナーはショパンの姉ルドビカにもそう話し、ショパンの事を心配した。
エルスナーの心配は根拠のないものではなかった、エルスナーはカルクブレンナーの親を知っていたのだ。「あいつらは悪党だ」ということらしい。
ショパンに親切にしながらも、ショパンの才能を邪魔し、自分の虚栄心のために、弟子にはショパンがいると自分の名前を宣伝し、ショパンを金儲けに使いたいだけだ、とエルスナー
の心配は尽きなかった。
エルスナー先生がカルクブレンナーを許せないと思った一番の理由は、カルクブレンナーは
ショパンの協奏曲の楽譜に鉛筆で傲慢に書き込みをし、更には削除した出来事だったよう
だ、エルスナー先生はそのことを芸術への冒涜であると思った。
そして、父ニコラとエルスナーは、カルクブレンナーがショパンにオペラを書かせず、ショパンにピアノ曲の作曲家そして有名なピアノ演奏家として演奏会ばかりをさせることは軽率な道で、ショパンの才能をカルクブレンナーは捻じ曲げようとしていると睨んでた。
父ニコラとエルスナーはショパンはオペラを書くことで芸術家として不滅の人物になることが神様から与えられた才能であり使命であると考えていた。
ショパンはそのような周囲のそれぞれの考えを踏まえながらも、父に心配掛けぬようカルクブレンナーは親切な素晴らしい先生だと報告していた。
ショパンの才能を、アンリ・エルツ、そして、カール・ツェルニー が踏みにじり(ショパン曰く)そして、辿り着いたカルクブレンナーという壁が立ちはだかっていた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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