2019年1月27日記事から、ディレクターズカットお届けします

カルクブレンナーがショパンに嫉妬心がなかったとは言い切れない。
ショパンの演奏を初めて聴いたカルクブレンナーはショパンが演奏した後で、自分が手本を
見せようと演奏しようとしたがいつものように弾けず途方に暮れて弾くのを辞めた、
動揺を隠せないカルクブレンナーは気を取り直して、再度ピアノに座り演奏したのだが、恐
らくそれはショパンが想像していたような素晴らしいものではなかったのだ。けれど、ショ
パンはそうとは言えなかった。
パリでカルクブレンナーと言えば当時パリは「大志を抱くヴィルトゥオーゾの工場」とまで
呼ばれ、カルクブレンナーは大勢の弟子を従えて上手く商売をしていたことで有名だった。
また、カルクブレンナーはイグナツ・プレイエルのピアノ製造会社に入社し運よく成功し事
業で儲けたのであった。
ショパンは12月15日の演奏会が延期となり12月25日になっていた。演奏会は、予
定ではバイヨー、オーボエ奏者のプロート、そして、ショパンがホ短調コンチェルトと
変ロ長調の変奏曲を演奏する予定であった。
すると、ある日、ショパンはホ短調コンチェルトと変ロ長調変奏曲の評論をドイツの評論家
から10ページにも亘るオペラの場面にこじつけた論文を受け取った。
その正体は、シューマンからだった。ショパンはシューマンの自分に対する評論が「賢明と
いうには程遠く愚かな考えだ」と思った。なぜなら、ショパンは自分の作品とオペラのド
ン・ジョバンニの駆け回るだの、接吻しているだのと固定されたイメージを曲に付けられる
のは迷惑だと思ったのだ。ショパンがオペラを目指していたことを知っての、ショパンに言
わせれば、「ドイツ人特有の重いジョーク」にとれたのであろう。それで、ショパンは死ぬ
ほど笑うしかなかったのだろう。
その奇妙な評論をそのままフランソワ=ジョゼフ・フェティスに郵送して雑誌ルヴュ・ミュ
ジカルに載せるとシューマンはショパンに言ったのだ。(フランソワ=ジョゼフ・フェティ
ス 1827年にパリの最初の音楽専門雑誌「ルヴュ・ミュジカル 」を発刊した人物)
そのため、シューマンの強引な申し出を迷惑に思ったショパンは、フェルディナント・ヒラ
ーに相談したのだ。するとヒラーはそのことを従弟に相談して、ショパンの名誉を守ってく
れたのであった。
ショパンは「やっとヒラーが僕を守ってくれた」と語った。
出来上がった雑誌にはシューマンの奇妙な重いジョークは削除され現在も言い伝えになって
いるこの言葉が掲載されたのであった。以下
「諸君、帽子を脱ぎたまえ、ショパンは天才だ...略...」
そして、そのあと、ショパンの予定していた25日の演奏会はカルクブレンナーの病気のた
め延期なり、1832年2月26日となった。
演奏会の内容はカルクブレンナーとの滑稽な共演と、ショパンの協奏曲へ短調と、 ラ・
チ・ダレム変奏曲 変ロ長調 であった。
客席はポーランド人で殆どが占め、ショパンのパリデビューであったが、出演者は複数によ
る演奏会であった。
     ≪ハイネはカルクブレンナーのことを泥に落ちたボンボン菓子と呼んだ ≫

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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