F.Chopin、ショパン、ポーリーヌの夫と会う、そして、その後のサンド一家は…、亡命者、脱落した政治家ギゾットと会う…

ルイス・ヴィアルド 
(1800年7月31日 ディジョン−1883年5月5日パリ)フランスの作家
美術史家、美術評論家、演劇人、翻訳者
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パリに居た1か月半程前まではサンド一家の
騒動に巻き込まれていたショパンであったが、ロンドンに来てからその記憶から
すっかり開放さたわけではなかった。
ロンドンに居てもサンドが新しい恋人の政治家ロランとリュクサンブール公園でいちゃついていたなどというニュースがショパンの耳にも入り、サンドど別れてよかったとショパンは思いながらも心穏やかではなかったのだ。
グシマーワもそのニュースは知っていた。
ショパンはグシマーワにサンド一家のことはロンドンに来ても頭から離れない自分がいることを話した。
「2日前、彼女(ポーリーヌ)の夫が私に会いに来ました。彼はジョルジュ[サンド]のことは言わず、いくつかのニュースがあったとだけ言った。それは納得できます。
彼もまた、(ジョージ・サンドへの関心が)すっかり冷めてしまったようだ。」
ポーリーヌとポーリーヌの夫はサンドのショパンに対する余りにも醜い仕打ちに対して抗議文を送りつけたことがあった。
サンドはそれでも反省せず懲りるどころか、
また新しい権力者を手玉に取っているのだ。
ポーリーヌの夫もサンドから離れる決意をしたということだった。
「貧乏なソランジュ I 
もし彼女の夫(クレサンジュ)がここ(ロンドン)に来たら、彼女はどうするのだろう。
母(サンド)は義理の息子(クレサンジュ)と仲良くしているのではないだろうか。
私は二人をよく知っているのでわかるのです」
サンドは娘の夫クレサンジュとは元々は恋人なのだ。だから、サンドとクレサンジュはよりを戻して結局は仲良くしているに違いないとショパンは二人の異性に対するルーズで嘘つきな性質を知っているから自分は騙されはしないと話した。
「彼(クレサンジュ)は最初にあることを言い、次にあることを言う。
そして次はまた別のことを彼(クレサンジュ)は言います。しかし、母親(サンド)はかつて彼(クレサンジュ)とあまりにも親密な関係にあったので、娘(ソランジュ)を
許すことができないのです。
今は母親(サンド)は彼(クレサンジュ)に再会し、彼(クレサンジュ)のために影響力を行使し始めたのです。」クレサンジュの彫刻が値が高く付くように権力者に働きかけていたサンドだった。
「特に、彼女(サンド)が寄稿している新聞社のソアとは、彼(クレサンジェ)は泥棒同然の仲であり、そのソアがオーギュスティーヌについてルソーに話したのだろう。
彼(クレサンジェ)がルソーにオーギュスティーヌのことを話したのだろう。
あのお人形のような女の子はどうなってしまったのだろう。」
オーギュスティーヌはサンドの養女で自分の意志を持たせてもらえないサンドの言いなりのお人形さんなのだ。
サンドはルソーにオーギュスティーヌを売り飛ばそうとしているのだ。
「なんてこった!アラゴの大使としての資質は?彼はドイツ語も知らないのだ!バイエルンに行かせた方が 良かったのではないか。むしろリストの方が外交官としては
より良い外交官になるのではないか。先週の晩餐会でギゾーにも会ったが、哀れなものだった。
彼を見ていると哀れだ。彼は金のフリース勲章を身につけていたが、明らかに彼の姿は気の毒だった。
彼はまだ希望を持っているにもかかわらず、道徳的に苦しんでいることが明らかだった。」
ギゾー(1787年10月 4日−1874年9月 12日)はパリで外務大臣を失脚しパリからベルギーを抜けロンドンに逃げ亡命して来ていたが、母親と娘を亡くしていたのだ。彼はその
自責の念が顔に現れていたとショパンはギゾーを哀れんだ。
「私は2枚の紙を一緒に拾ってしまうというミスを犯してしまいました。
ここは静かなものだ。誰もアイルランドやチャーチストの問題をそれほど恐れていない。
これらのことは遠くから見るとそれほど大きくは見えません。
人々は、パリ、イタリア、ポーランドの情勢に関心を寄せている。
ポーランド ポーランドに関しては、The Timesが、イギリス人でさえも驚愕するほどの幻想的なナンセンスな記事を掲載している。
イギリス人でさえその敵意に圧倒されるほどだ。チョジェツキ(政治家)。
チェコ人と一緒になるなんて、どうかしていると思う。彼らに
自分の汚物の中を転げ回らせておけば、愚か者がその泥を簡単に洗い流せるならば
自分の汚物を転がしておけばいい。もし、これ以上問題を起こそうとするなら、彼らは
主なる神との間に重い契約を結ぶことになるだろう。
全ての愛を我が古き友へ ショパン」
ショパンはチョジェツキへの痛烈な批判をしてグシマーワへの書簡を書き終えたのだった。


エドマンド・フランチェスコモリシー
(チョジェツキ)
(1822 年10月15日−1899年12月1日パリ)ポーランドのジャーナリスト
劇作家、小説家、詩人や翻訳者。
左翼の知的政治運動に参加、ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチの政治週刊誌La Tribune des Peuples(The Peoples'Tribune)を編集した。
彼はパリのエリート学者と文学界でナポレオン3世皇帝の秘書でした。
ル・モンドの前身であるパリの日刊紙LeTempsを共同設立しました。
チョジェツキのポーランド語の小説にAlkhadar(1854)、ポーランド(1847)翻訳が有る。
1846年チェコの土地の歴史についてCzechjai Czechowie(チェコとチェコ人)を書いた。
ジョルジュ・サンドの仲間だった。
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾット(1787年10月4日-1874年9月12日)
フランスの歴史家、演説家、政治家
ギゾットは1848年2月革命以前のルイ・フィリップ王政権下のフランスの政治において外務大臣を務めた。2月革命でパリからベルギーの友人の家に数日間匿われベルギーとの国境を越え3月3日にロンドンに到着し亡命した。
英国社会は、彼の政策の多くが不承認であったにもかかわらず、8年前に国王大使に示したのと同等の敬意を持って堕落した政治家ギゾットを受け入れました。
イギリス政府からお金の授与が彼にありましたが彼はそれを拒否した。オックスフォード大学での教授職の話を彼は断りました。
彼は英国で歴史に専念し、彼はイギリス革命に関する2つの追加の巻を出版し、1854年に彼のイギリス共和国とクロムウェルの歴史(1649-1658)を出版。シェイクスピアの多数の作品の翻訳した。



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