F.Chopin、孤高の芸術の道を選ぶフレデリック・ショパン

ショパンはロンドンでは何もかもが高額なことに戸惑い苦しんでいた。パリでは有名人だったはずのショパンでさえ、ロンドンの有名な雑誌にたった一行足らずの評論を載せてもらうために高額なお金を払わなくてはならないことが馬鹿げているとさえ思えるフレデリックだった。世間を騒がしている記事はショパンにしてみれば芸術には程遠い偽者や偽りばかりで、そういう類いの者が上手くやっている荒れたロンドンの市場がショパンには「どうでもいいこと」に思えてしまうのだ。
「よくわからない文章はバルチンスキに訳してもらうように。」ルドヴィカの夫バルチンスキはロンドンも旅しことがあり英語が堪能だ。
「ファルマス卿のところでのコンサートは人数を限定しました。お客は200人、サルトリス夫人のところでは150人です。チケット代金は1枚1ギニー(現在の凡そ26000円)で、差し引き300ギニー(凡そ7800000円)ほどの収入になりました。」ショパンはロンドンでも知り合いだけを招いた小規模なコンサートにしか出演しないように自らそうしていたのだ。パリに居てもロンドンに居ても監視下にあるショパンはそれだけ用心深かったこともあるが、それだけではない、ショパンが考える当時のピアノの性能を最大限に生かせお客の耳に確かに聴かせることができるのが150人〜200人までということなのだ。ピアノの性能はまだ過渡期である。
正にアコースティックな楽器としてのピアノの演奏会なのだ。建物の響きとピアノの性能で出す音だけでピアノの音色を堪能するのである。それにしても、パリで貧乏だったショパンはロンドンでも財政難に苦しめられた。ショパンはブロードウッド、プレイエル、エラールの三台のピアノのために支払う家賃はショパンの収入に見合っていなかった。
ショパンは演奏会の収入以上にかかるロンドンの生活費をワルシャワの家族を頼るしかなかった。「ここは様々な経費がかかります。シーズン中のロンドンは恐ろしく物価が高いからです。私はアパルトマンに使用人も雇えず一人でいます。(私の部屋は巨大なピアノを3台置ける高層階です。プレイエルとエラールが提供した2台、ブロードウッドからの3台目)。」
パリからショパンが持ち込んだプレイエルに加えて、提供されたエラールとブロードウッド、この2台はショパンは殆ど弾かなかった…というのもショパンはあまり気に入っていなかったのもあるが、実際ショパンはロンドンでは毎日忙し過ぎたためロンドンの部屋でゆっくりピアノを弾く時間というものはショパンにはなかったのだ。ショパンはエラールとブロードウッドを返したくても返せず、ピアノのために嵩む家賃に苦しめられていたのだった。
「さて、私が言っていたように、私のアパルトマンは、その大きな細い階段と立派な入り口のため、そしてドーバーストリートがピカデリーの隣にあるため、80ポンドの費用がかかりました。その上、私の馬車と従者をすべて恐ろしく高価なものに加えると、もし、私が毎日自宅で1回1ギニーで数回のレッスンを受けていなかったら、どうなっていたかわかりません。」ショパンの弟子はロンドンでは2、3人でそのレッスン代金も踏み倒されていたことまでは、姉ルドヴィカに書けなかったショパンであったが、それでもショパンは家族に少しでも自分の音楽家としての誇らしい報告をしたかった…。
それは、グシマーワやロゼールにも既に書いたようにサザーランド公爵夫人のお城に招かれ女王とアルバート王子の前で演奏したことであった。
グシマーワとロゼールにも書いて送っていたショパンであったが、ショパンは実は、水晶宮では演奏させてはもらえなかったのだ。家族へは詳しくは言えないショパンであった。その訳はショパンは宮廷支配人に挨拶をしなかったこと、そしてフィルハーモニック協会とのコンチェルトの共演をショパンは断ったことが原因であった。しかし、このことは、ショパンは自分の健康状態を理由に断ったと公にはなっていたが、本当の理由が他にもあった。フィルハーモニック協会からのコンチェルトの指定は1つの曲の共演だった、そして、リハーサルを無料で公開するが本番は本当にあるのか…喪に服していた宮廷であったためショパンは疑わしいと考えていた。ショパンはドイツに旅した19歳の時に王室宮廷劇場でコンチェルトとロンドと変奏曲を演奏したことがあった。ショパンはコンチェルトのときには他の独奏曲も演奏するのがショパンのスタイルであった。そして、コンチェルトには指揮者はいなかった。ショパンが尊敬していたベートーヴェンもそうであったように、ショパンも弾き振りをしていた。ショパンとしては自分の今までのスタイルより値打ちを下げるような演奏会には出演するわけにはいかなかったのだ。ワルシャワに居る家族には理解を求めたフレデリックであった。
そして、フレデリックは更にサザーランドのお城での晩餐会の様子をつぶさに書き続けたのであった…。続く…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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