フレデリック・ショパン、ロンドンで昔の友達に再会…ショパンにとってこれは本物のイギリス式親切か…?

ショパン肖像画からとトーマス・ブロードウッド肖像画から
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ショパンは、ロンドンの社交界で知り合いになった貴族は数知れないのだ。その中でも特別にショパンに親切にしてくれた人々を
ショパンは家族に伝えた。
しかし、それは実はショパンと初めて知り合った人々ではないのだ。
「私の昔からの知り合いで、とてもお世話になった人たちがいます。」ショパンはロンドンは昔来たことがあるのだ、そしてパリからの知り合い…。
「たとえば ブルワー卿はかつて
マドリード大使、ダドリー・スチュアート卿、ガミング・ブルース、レディ・オブ・マドリード、エルジンの父、モンクトン・ミルズなどです。」
ブロードウッドという人は、まさに
ロンドンのプレイエルのような存在で、ブロードウッド氏は私の最高で真の友人です。」
ショパンは11年前の1837年にロンドンに滞在したことがある、そのときブロードウッドの邸宅に招かれブロードウッドピアノで演奏をしたことがあった。ブロードウッドはその時以来の古い友人でもあった。
そのブロードウッドは、ショパンの2度目のロンドンでピアノを提供しただけではなかった。
「ご存知のように
大金持ちで教養のある男性で、会社は父親から譲り受けたものです。
その後、彼は田舎に引っ越しました。」
環境が悪かったからなのか…公害が絶えないロンドンだったからか…何か理由があるのだろうが郊外へ引っ越していたブロードウッド氏だった。
「彼(ブロードウッド)は立派な人です。
ギゾー氏とその家族全員を受け入れたのは彼なのです。
政治家のギゾーの家族はパリからロンドンへ
逃れて来ていた、それをブロードウッドは自分の邸宅に引き受け助けていた。
「彼は誰からも愛されている人です。
ファルマス卿 邸宅に私を招いてくださったのもブロードウッド氏です。」
実はファルマス卿 邸宅の晩餐会はファルマス卿 の招待ではなかった、ブロードウッド氏が
ファルマス卿 に話を付けてくれたのだ。
そして、更に、

『これで彼のイギリス人としての礼儀正しさがおわかりいただけるでしょう。』

ショパンはブロードウッドのピアノは本当はプレエルより好きではなかった。しかし、
ブロードウッド氏は良い人だとショパンはうなった。
「ある朝、彼が私に会いに来た。私は疲れ切っていたので、彼にこう言った。
私は眠りが浅いのです。
そして夕方、サマセット公爵夫人宅から私はアパルトマンに戻ると、
新しいスプリングマットレスと枕が置いてあるではないですか!」
ショパンは確かパリでも誰からかわからない
毛布がアパルトマンに届けられたことがあった。恐らくはワルシャワの優しい姉ルドヴィカからだったのであろう。
けれど、これは、
本当にブロードウッド氏からのショパンへの
10年来の友情の証なのだろうか…。
「使用人のダニエルいろいろと質問したのですが、使用人が言うには、ブロードウッド氏が送ってきたものだと言うのです。そして
黙っているように言われているというのです。」
ブロードウッド氏からの贈り物であることはショパンには秘密だとブロードウッドから使用人は口止めされていた。
けれどダニエルはショパンに話してしまったというわけだ…。
ブロードウッド氏のショパンへの
親切は更にまだあった…
「10日前にロンドンを発つと、そこには
エジンバラ行きのホームで、その人から名乗りを上げた紳士がいた。
ブロードウッドは、私の列車の部屋の席のチケットを1枚ではなく、2枚くれたのです。
もう1つは向かいの席で、誰にも邪魔されないようにするためです。
その上、彼はウッド氏(私の友人)を手配してくれたのです。彼はブロードウッドの知人で、私と同じ汽車に乗りました。」
これもイギリス紳士式の流儀なのであろうか…。ウッド氏は1836年、ショパンはフランクフルトのリピフィスキの家で会ったことがあった古い友人だった。その彼は今、
エジンバラとグラスゴーで楽器商人になっていた…。ショパンのエジンバラ行きは
実はブロードウッドピアノの宣伝塔をショパンが一役買わされたのであろう…。
楽器商人のウッド氏はブロードウッドの販売係りつまり営業マンなのだ。だから、ショパンは演奏係りの宣伝塔といったところだ。
だから、ショパンは作曲どころではないのだ…。
「ブロードウッドは私に親切です。
私のダニエルは、他の多くの紳士よりも行儀が良く、彼は多くのイギリス人よりも
見た目がいいです。」
フレデリックはロンドンに来たばかりの時はイタリア人の使用人に不満を抱えていたが、
新しい使用人であるダニエルは素直で行儀も良く身だしなみが良く、と三拍子揃っていた。ショパンは外見に気を使うタイプだったからダニエルはショパンが連れて歩いて恥ずかしくない=お金持ちのご夫婦に好かれる、ところが選ばれたのだ…。
なんと、ブロードウッド氏は使用人ダニエルの席のチケットまで用意してくれたのだ。
「ダニエルも同じ列車の客室に座りました。
ロンドンからエディンバラまでの407マイルの急行列車でした。
ブキンガム、カーライルを経由し、特急列車で12時間でバーグに到着しました。」
ショパンはもう逃げられないのであった。
時代はプレエルもブロードウッドも大量生産に移行していた…。
ロンドンでショパンを待っていたフォンタナもニューヨークへ帰ってしまった。
ショパンのアメリカ行きはすっかり絶たれてしまった、ショパンの夢はいったい何だったのか…。
ショパンにブロードウッド氏が送ってきたのは、本当にスプリングマットと枕だったのか。ワルシャワの家族には心配をかけないようにと、どうにかしてお金を作り出そうと思案するショパン…ショパンの旅はまだまだ続くのであった。
スコットランドの指物師兼家具職人であるジョン・ブロードウッド(1732–1812)は、1761年にロンドンからスイスでチェンバロ製造業者のバーカット・シュディで修行した。
彼は8年後にシュディのひとり娘と結婚し1770年婿養子になる。1793年にハープシコードが廃れた。
ブロードウッドの息子であるジェームズ・シュディ・ブロードウッドは、1785年から会社で働いていた。1795年に、会社はジョン・ブロードウッド&サンとして引き続がれた。
ブロードウッドの3番目の息子の
次に、トーマス・ブロードウッドが1808年が引き継いだ。
トーマスは1818年に若い男としてベートーベンに会い、新しく改良されたトリプルストリングピアノ(その後リストに寄贈、現在ブダペストの国立博物館)
トーマス・ブロードウッドは1824年から1825年にサセックス州ローワービーディングのホルムブッシュ邸宅を購入し、フランシス・エドワーズを雇い、八角形の砲塔を備えた2階建ての城壁に囲まれた邸宅を設計した。彼は1820年代と1830年代に流行したダリアを育てていた。
ブロードウッドは1833年にサセックスの高保安官でした。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(1787年10月4日 フランス王国- 1874年9月12日ニーム)
フランスの政治家、歴史家
七月王政期の最後の首相
任期1847年9月19日 – 1848年2月23日
君主ルイ・フィリップ1世
1787年10月4日、フランス南部のニームで生まれ。 
プロテスタント
父はフランスの弁護士
1794年4月8日、ギゾーが6歳のときに父がフランス革命の恐怖政治に巻き込まれてギロチンで死刑。
ギゾーは母親とともにジュネーヴに避難。
ギゾーの教育は母(敬虔なカルヴァン派で自由主義者)ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』での教育論で育てた。
ギゾーは大工になるよう育てられた。
後年の1848年革命でギゾーはイギリスに亡命、ギゾーの母も同伴したがロンドンで亡くなる。
ギゾーは家族とイギリスの田舎のブロードウッドの家に隠れていたとロンドンに居たフレデリック・ショパンはブロードウッドから聞いて知っていた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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