フレデリック・ショパン、マットレスと枕の真実は…そして、スコットランド行きの真相とは…

ショパンが滞在したスコットランドのダグラス伯爵の邸宅の前のショパン♬イメージ♬
ショパンはロンドンでは連日の晩餐会とリンド嬢との付き合いで毎晩のように眠れない日をすごしていたのだ。だからブロードウッド氏がショパンに突然面会にショパンのアパルトマンを訪ねて来た日にショパンは
『昨夜は寝ていないから、今日は休みたい、
面会は断ってくれ』と使用人のダニエルに
こと付けたのであろう。そもそも、ショパンはブロードウッド氏に会いたくなかったのだ。ブロードウッドピアノを返却したくてもできず、ましてやお金もないため買い上げることなど到底不可能なショパンだった、
だから、あれこれ考えるとブロードウッド氏には会わないことが賢明だったのだ。
しかし、次の日にブロードウッド氏から送られて来たのは
なんと、マットレスと枕だったのだ。
これは、どういうことなのか、、
これはだ、ブロードウッド氏は大事な話しがあるから、わざわざショパンに会いに来たのだ。何かを交渉しに来たわけだ。だから、
ショパンに会えなかったブロードウッド氏は
従順な使用人ダニエルに後日スコットランドへ行く予定のショパンに『あなたがプレエル派なことは承知しておりますが、我が社のブロードウッドピアノの販売促進のために是非スコットランドでショパンさんにたくさんブロードウッドを弾いてもらいたいと存じます。その報酬は…』などなどといったところなのだ。
だから、マットレスと枕と汽車のチケットなのだ。マットレスは地の果てスコットランドのあちこちでショパンの寝床がない場合は、
『どうぞ、このショパン様ご専用マットレスとショパン様ご専用枕でお休みください、
使用人のダニエルには話を付けてありますから、お荷物はショパン様の向かい側の座席を余分に確保してありますから、よろしく…
』…これなら、つじつまが合うのである。
恐らくショパンがスコットランドへ行くことはスターリング嬢から情報を得ていたブロードウッド氏なのだ。つまり、これからショパンがロンドンを後にすることを知っているからショパンを訪ねて来たのだし、ロンドンのアパルトマンで使うためのマットレスと枕をプレゼントとは不自然だからなのだ…。
ショパンはグシマーワやフォンタナやロゼールにも言えなかったこの出来事を、ワルシャワの家族には『ブロードウッド氏はイギリス紳士らしく最高に親切な人だ』だから、
断れなくなったとしたのだ。
確かにブロードウッド氏はお金持ちで親切な紳士で世間ではいい人で通っていたのであろう。
ショパンにお金儲けの話しを条件付きで持ちかけてきたのだ、だから、使用人ダグラスに口止めしたのは「世間に言いふらなよ」ということだったのだ。
ショパンはロンドンからスコットランド行きはスターリン嬢の招きで演奏ツアーと表向きはなっていたが、実はブロードウッド氏との秘密の契約を交わす羽目になったショパンだったのだ。
ロゼールやグシマーワにも書かなかっことをワルシャワの家族には伝えたフレデリックはロンドンでの経緯を一通り書き終え、
スコットランドでの様子を最初から
家族へ書き始めたフレデリックだった。
「エジンバラでは、最高のホテル(ダグラスのホテル)を(ブロードウッド氏は)予約してくれていた。
私は、そこで1日半ほど休みました。
私はこのこの美しい町並み(スケッチ)をあなたがたへ送りします。
これ以上きれいな景色はないでしょう…」
スコットランドのエジンバラでの初日は
素晴らしい古城の宿だった…ショパンは絵が上手だった…
綺麗な景色だと言うフレデリック、
せめてもの慰めは広大な自然の景色だった、
ポーランドの景色を思い出していたのであろう…。旅はまだまだ始まったばかりだった…。

ダルマホイホテル現在
ショパンが滞在した1848年以降建物は改築を重ねたが、広大な敷地に建つ古城のイメージを想像出来る。
ショパンはこれ以上に美しい景色はないと
感動を絵に描きワルシャワの家族へ
送った(絵は現在しない)
ダルマホイ
スコットランドのエジンバラ近郊にある古城
現在はホテル兼旧カントリーハウス。
ラーゾの南3.5km(2.2マイル)のA71道路のすぐそばにあります。古城はカテゴリーA指定建造物として保護されている。
18世紀初頭まで、この土地はダルマホイの所有物でした。
スコットランドのジェームズ6世が1589年4月に狩猟中に古い城に滞在した。
この土地はジェームズ6世が1598年3月18日に義理の兄弟であるホルシュタイン公爵と一緒にダルマホイで狩りをした。
現在の建物は、1725年にジョージ・ダルリンプルのために建てられ、伯爵の次男である建築家ウィリアム・アダム(1689–1748)によって設計されました。
その後、ダルマホイは、1750年にモートン伯爵のジェイムズ・ダグラスに売却されました。
建物は、1787年アレクサンダー・レインによって設計に拡張と多くの変更が加えられました。1830年代には、ウィリアムバーンを巻き込み、1851年にはブラウンとウォードロップによってさらなる変更が加えられた。
1927年に家は賃貸されてホテルに改築され、敷地内にゴルフコースが設立された。
1927年以降は新しいゴルフコースのために敷地内の改良を重ねて現在に至る。1930年までには閉鎖されていた。
現在のホテルは1990年に建てられ、元の建物を大幅に拡張したもので、ゴルフコース/ホテルコンプレックスは1992年に2回目(そしてヨーロッパで最初)のソルハイムカップを開催した。ダルマホイは現在は独立したホテルとなっている。

ホテルは拡張と変更を重ねながらも、19世期頃のお城の面影を残している

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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