フレデリック・ショパン、ショパン、エジンバラは美しい…けれどショパンには何かが足りない、その何かとは何…?

19世期頃エジンバラのセントジャイルズ大聖堂の窓の前のショパン♬イメージ♬
ショパンは、
ロンドンでパリからの古くからの知り合いの貴族方や、ブロードウッド氏など、と再会し、彼らは皆、ショパンに親切であることを
ワルシャワの家族へ伝え、姉ルドヴィカと母ユスティナを安心させた。
ショパンは同時にフランショームにも書簡を書いていたが家族にはまず、
エジンバラのダグラス伯爵のお城に
一晩宿泊したことを語ったのだが、
これは、ショパンが独特の皮肉でもあったのだ。このエジンバラの街をショパンは観て回ったのだが、便箋にスケッチした絵は
そこそこの街の様子であり、実はつまらなく感じたのだ、そうとも言えないショパンは、
「この絵はマシな方でこれ以上の絵になる
風景を探したがなかった…」だから、
あなた方に良い報告をするため私は最大の努力をしましたが、この絵(それほど感動には
至らない風景でごめんなさい)がこの地では
最大にマシな風景なのです!と…
残念ながら、感性の高いフレデリックには、それが現実に感じたエジンバラの街だったのだ。エジンバラは充分に美しい街だったのだが、理想も美意識の高い作曲家ショパンには何かが不足であったのだ…。
…その何かが「見つからなかった」とショパンは語った。その何かとは何だ…そう、
それは、感動なのだ、心を揺さぶられる程の感動がないのだ!!だから、ショパンは曲が書けないのだ!ショパンは曲を書かず、こんな風なところで…と絵と文章になってしまうのだ。。。
つまり、それは、風景だけではないのだ、
街の人々と旅人ショパンの心温まるような
ふれあいがないショパンだった。
音楽家とはそういうものなのだ…。
たとえば、「いつも人が
鼻の下に美しいものを持っていていつも何かを称賛する。
彼らの鼻の下でなれなれしくならないと、軽蔑を生むことになる」ショパンはエジンバラの街の人々の価値観とは当然ながら別の価値観を持っていたが、それは街の人々の価値観に合わせないと旅人とはいえ、酷く中傷の的になってしまうという、とショパンは語った。
景色はそこそこ、人々とも親しくなれるわけもなく、ショパンにとっては何もないと感じて当然なのだった。
それでも、
少しは救われることもあったショパン、
「私はエジンバラで、魅力的な友人たちを見つけました。友人たちは私に
町を訪れるために彼らの馬車の使用してくださいと私に言ってくれました。」
そして…
「私が
エジンバラで休んでいたとき、音楽商店の前を通りかかると私のマズルカが聴こえて来ました私は馬車に乗り込みました。
トーフィシェン卿は馬車を遣わせてくれました。
その馬車は運転手は馬に乗った英国式です。
エジンバラから12マイル離れたところまで行きました。トーフィチェン卿は老人で
70歳のスコットランド人で、アースキン夫人とスターリング嬢の義兄です。」
結局のところ、パリからの長い付き合いの
アースキン夫人とスターリング嬢の誘いの他にはこれといって新しいパトロンの招待がなかったショパンはこの2人に世話になるしかなかった。
ロンドンでも彼女らの家で食事をしていたショパン。
それ以外はロンドンで何もできないショパンであったが、スコットランドへ来ても
アースキン夫人とスターリング嬢の監視からは逃れられないショパンであることを
家族に書いた。
それでも、第10代トーフィッケン卿は紳士でありショパンに親切であった。
ショパンはトーフィッケン卿のカルダー・ハウスに到着し、そこでフランショーム、フォンタナ、プレエル、そして家族へ同時進行で書簡を書いていた。ショパンの家族への報告はまだまだ続いた…。
ショパンはトーフィッケン卿はショパンに70歳と話したが実は彼はこの時78歳だった。
ショパンはトーフィッケン卿のことは、
「心温まる招待」と話した…。
カルダー・ハウス

トーフィッケン卿邸宅
トーフィッケン卿:16世期に始まったスコットランドの貴族
初代ウェスト・ロジアン地方の領主
サー・ジェイムズ・サンディランズ
(1511?-1579)
ジェームズ・サンディランズは、
第10代のトーフィッケン卿。
(1770年7月21日−1862年11月3日)
彼はエジンバラに到着したフレデリック・ショパンの迎えの馬車を遣わせた。
彼はカルダー・ハウスで旅で疲れていた作曲家ショパンに心温まるもてなしをした。

マーガレット・ダグラス・スターリング(1836年12月13日)、キッペンダヴィのジョン・スターリングの妻メアリー・グラハム、ダウ、エアスのウィリアム・グラハム
ロバート・サンディランズ、第11代トーフィッケン卿(1807-1869)
アースキン夫人
オーガスタ・ゴードン夫人
オーガスタゴードン夫人(旧姓 フィッツクラレンス、1803年11月17日-1865年12月8日)はイギリスの貴婦人
長年の愛人ドロシー・ジョーダンによってイギリスのウィリアム4世(当時はクラレンス公)の4番目の非嫡出娘として生まれ、テディントンのブッシーハウス邸で育った。
オーガスタには4人の姉妹と5人の兄弟がいて、全員が同じ名前の非嫡出子でした。
彼らの父が君主になった直後に、フィッツクラレンス(非嫡出子)の子供たちは侯爵のより若い子供たちの階級に育てられました。
レディオーガスタ・フィッツクラレンス
レディオーガスタ・フィッツクラレンス
彼女は、2回結婚した。
配偶者、ジョンケネディ-アースキン、
ロードフレデリックゴードン-ハリバートン、
彼女はフレデリック・ショパンとパリとイギリスで知り合いであった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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