フレデリック・ショパン、まるでそこは16世紀にタイムトリップしたかのようだった…ショパン、スコットランドの貴族の夫人邸宅から邸宅を渡り歩く…

エジンバラのグレートスチュアートストリート、マーレー卿邸宅の窓の前の
マーレー卿♬イメージ♬
ワルシャワにいる姉ルドヴィカ夫妻の家族、
そして、母ユスティナは妹イザベラ夫妻と暮らしている。独り者のショパンにとっての家族はいつまでもワルシャワに居た頃と変わらない姉ルドヴィカであり、妹イザベラ、そして何よりも大切な母ユスティナであった。
ショパンはその大切な家族にロンドンの報告を書き終えた。
ロンドンからエジンバラまで汽車の旅をしたショパンは、エジンバラで1日半休み、そこから、マンチェスターのトーフィッケン卿のお城まではトーフィチェン卿が遣わした馬車で揺られること12時間、スコットランドの
カルダーハウスに到着したというわけだ。
エジンバラからマンチェスターまで当時の道で約655kmを馬車で12時間かかった。
(例えば東京から広島まで約675km、
現在はエジンバラからマンチェスターまで電車で3時間23分、現在の最短距離で373km、例えば自転車で休まず単純計算で約19時間45分)
ショパンは、ワルシャワの家族へカルダーハウスに到着して五日目に書簡を書き始め、10日ほぼ毎日書簡を書いていた。
カルダーハウスに来てから15日近く経ったショパンはカルダーハウスから眺める大自然の景色も少しは慣れきたのか、
16世紀から伝わるトーフィチェン卿邸宅の荘園の様子を話した。
「ここは、コルダーハウスとも呼ばれていて、樹齢100年の木々が生い茂る広大な荘園に囲まれています。その中で
芝生、木、山、空だけが眺めです。
壁は8フィート(243.84 cm)あります。
いたるところにギャラリーがあり、
暗い廊下には数え切れないほどの古い
様々な色、
様々な衣装の先祖の肖像が描かれています…。
キルトを着た人、
鎧を着た人、
ファージングエールを着た女性
などなど。
想像力をかきたてられます…。」
キルトとは、1594年から伝わるイギリス軍人の男性の正装で、タータンチェックの言わずと知れたあのスカートのことだ。
そして、鎧はプレートアーマーといい、
人体の胸部、あるいは全身を覆う金属板で構成された板金鎧(ばんきんよろい)とも呼ぶ出立のことだ。
それから、ファージングエールとは、16世紀と17世紀に西部のヨーロッパ貴族がスカートを広げて大きく見せるためにスカートの下着として履いていた衣類、今で言うドレスの下着のパニエのようなものであろう。
ショパンはロンドンで産業革命の汚点を見て取り、エジンバラで貧しい人々を見たのであろう、そして、
スコットランドでは、トーフィチェン卿のお城は、まるで時が16世紀から止まっているかのような貴族の使用人達の出で立ちを観たショパンだった。
ショパンは想像力をかき立てられたものの、
作曲する気分にはやはり至らないのであった…。
「私が使っている部屋は最も素晴らしい眺めです。スコットランドのこの地域が最も美しいというほどではありません。
最も美しい場所は、グラスゴーの北にあるスターリング市の方角だと想像できます。
 数週間後には、私はマーレー夫人に会いに行く約束をしています。」
ショパンのロンドンでの最初の弟子はマーリー夫人だった。
マーレー夫人にとって音楽は芸術というより退屈しのぎの道楽であるのだ…。しかしショパンはマーレー夫人はロンドンでの唯一、お金を払ってくれる弟子なのだ。
「彼女はほとんどの時間を音楽三昧に溺れています。
エジンバラでは、音楽のサロンを開催しています。
マーレー卿は、海辺のとても美しい地区に住んでいます。実際に人は海を渡らなければそこへは行けません。
この後、スターリング地方に近いケクにも行かねばなりません。
スターリング嬢のいとこたちが住んでいる。
『湖の女』に登場する場所です。」
ショパンはマーリー卿邸宅を訪問した後は、
スターリング嬢の従兄弟が住むキアー・コートへ招かれているのだ。
ショパンのスコットランドの旅は貴族の古城巡りのように古い古い時代へと続くのであった…。
 ショパン…作曲はどうしたのだ…。

19世紀頃キールハウス
キールハウスの東正面、現在
キールハウスは、スコットランド中部のスターリング近くにある大きなカントリーハウスでパースシャーの旧郡にあります。
ブリッジオブアランの北西2.5 km(1.6マイル)のレクロプトの教区に建っている。
この土地には、
15世紀から20世紀までスターリング家が所有し住んでいた。
現在、キールハウスは、スコットランドのカテゴリーAの指定建造物として保護されており、スコットランドの重要庭園と景観の保護地区とされている。
ヘンダーランドのジョン・アーチボルド・マーレー卿、
マーレー卿(1778–1859)
スコットランドの裁判官、正義大学の上院議員でした。
1826年、マレーはチェシャーのオールドフィールドホールのウィリアムリグビーの長女であるメアリーリ・グビー(1778–1861)と結婚しました。彼らの一人息子は少年時代に亡くなりました。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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