フレデリック・ショパン、ショパンの行き着いた先、スコットランドはワルシャワの家族が望んだことだったのか…ポーランドからの繋がりとは…

ショパンのパリでの弟子であるスターリング嬢とスターリング嬢の姉の招きで
ショパンはスコットランドの地の果てカルダーハウスで推定18日間程過ごした。
そこでは、ショパンは何不自由なく過ごしていた。スターリング嬢姉妹はロンドンではショパンを連れ回し、ショパンはそれにうんざりし疲れきっていたのだが、地の果てカルダーハウスでは頼る人々もいないショパンはお節介なスターリング姉妹が親切にさえ思えるようになってきていた。
ショパンは地の果てスコットランドに来ていても、やはりパリ情勢のことが頭から離れないのだ、パリの新聞をスターリング嬢経由で
届けてもらい、毎日ニュースをチェックしていたショパンだった。
ショパンの身の回りの不足はスターリング嬢姉妹がすべて用意してくれるのだ。ショパンの滞在している客室にはショパンのために
ピアノはブロードウッドが置かれている。
スターリング嬢はショパンを通してブロードウッドを購入したのだ。
ショパンが好きなプレエルピアノはスターリング嬢はパリで所有していた。
やはり、ショパンを通してパリでプレイエルからスターリング嬢は購入したのである。
そのプレエルをわざわざスターリング嬢はパリからスコットランドへ輸送したのだ。
ショパンがプレイエルを弾きたいと言ったのである。しかし、プレイエルは客間に置かれていたため、ショパンが自由自在に使えるわけではなかった…。
それでも、他の伯爵夫人邸宅に比べれば、
スターリング嬢の実家邸宅は好きに過ごせる方だった。
「私は静かで平和で快適な生活を送っていますが、あと1週間でここを出発しなければならないのです。来年の夏の間もずっとここへ来るように卿は私を招待してくださった。
私は一生ここにいても構わないのですが、
それがいったい何の役に立つのでしょう!」
ショパンは投げかけた、
それは自分に対してだ。
ショパンはスターリング嬢のピアノは自分の仲介でスターリング嬢が購入した物であるから、スターリング嬢に世話になる負い目が少なかったのだ…だからカルダーハウスに来年の夏も、いいえ、一生暮らしても構わないと
考えていた。しかし!…しかし!
何不自由ない暮らし、スターリング嬢は全て生活の物もショパンの目の前にすぐに
用意して持って来てくれる、ピアノは
部屋にはブロードウッド、弾きたいプレイエルはショパンの部屋からは遠く離れた客間にあり、弾くことは可能だが、そこで作曲することは出来ない…。
部屋にはブロードウッド…ショパンとしては、作曲がやりにくいのである。
何不自由ない暮らし…そこで毎日、用意された物と暮らし、それ以外のことは、お客を一切干渉しないのがイギリス貴族だからなのか、卿の流儀であった。
良くも悪くも…
「私の部屋は他の部屋から離れたところにあります。
好きなように弾くことができます。
私は完全に自由です。バルチンスが話すと
思いますが、ここの人たちの最大の関心事は、客はいかなる点においても自由を束縛されるべきではないということです。私の部屋にはブロードウッドがあり、客間にはスターリング嬢がパリから持ち帰ったプレイエルがある。」
バルチンスキの哲学をショパンは聞いたことがあるのか、それとも、
まさか、イギリスに何度か来たことがある姉ルドヴィカの夫バルチンスキはカルダーハウスに来たことがあるのか…事実は不明だが、
ショパンはカルダーハウスに来てから、
トーフィチェン卿から聞いたのかもしれない…バルチンスキは
トーフィチェン卿と知り合いでバルチンスキはカルダーハウスに来たことがあり、
サンドと別れたショパンを何処に置くかを
ワルシャワの家族で話し合っていたのか、
チェリストのフランショームはスターリング嬢は弟子であり、姉ルドヴィカのこともよく
知っている。姉ルドヴィカはフランショームに弟フレデリックをよろしく頼みます、と
いつもフランショームにお金を払ってきた。
バルチンスキはロシア寄りでルドヴィカは
裕福でお金には困らなかっが、ショパンの
身の振り方をフランショーム、スターリング嬢とも関わり、フレデリックをカルダーハウスに追い込んだのだ。
ましてやアメリカ亡命などフレデリックにされてはワルシャワの家族の全員の身がどうなるかわからないからなのだ。
バルチンスキのことはルドヴィカは嫌いであったが、バルチンスキに説得されたのか、ルドヴィカもフレデリックを守るためと自分たち家族を守るための仕方がない決断だったのか…。
それを知り感じたショパンなのか…。
ショパンは一生カルダーハウスに自分がいることが何の役に立つのか!とワルシャワの家族へ投げかけた。
誰かの役に立つのか、
スコットランドのためになるのか、
スターリング嬢のためになるのか、
卿の慰めのためになるのか、
ブロードウッドのためなのか!
それが、故郷のポーランドのためになるのか、家族のためになるのか!!!
ショパンの何のためにが繰り返し繰り返し
頭に浮かんでは消え、また浮かび消えることがない…。自問自答を繰り返すショパン。
ショパンには自分のために生きるという選択が今までなかったし考えたこともなかったのだ…。
だから、何不自由ない平穏な暮らし…
それが作曲家ショパンには無味乾燥な暮らしであり、ショパンはハングリー精神が湧いて来ない原因であり、それがショパンには最大の心の不足だったのだ。
パリではポーランド難民のために演奏してきたショパンだった、しかし、ロンドンでは
パリのようにポーランド難民のための演奏活動など許されるはずもなく、ましてや、
スコットランドの田舎でショパンは
作曲のインスピレーションが沸かなければ、
その他、何もすることがないのだ。
ショパンはここでの暮らしはあなたがたはバルチンスキがら聞いていて本当は知っているのですね、とワルシャワの家族へ気持ちが昂ぶるのを堪えながら続きを書いたフレデリック…
「イギリスのカントリーハウスでの生活は、とても楽しいものですよ。人々が
数日間、常に到着しています。図書館、馬、車、たくさんの使用人など、家はとても優雅に整えられている。
彼らは通常2時に昼食(故ドムシェフスキーの綴りを採用すれば=繋がり)を食べに降りてくる(各ゲストは自分の部屋で自由に朝食をとる)。
そして7時に夕食。夕方には
を、好きなだけ食卓に並びます。
ある晩、私は
老公のためにスコットランドの歌を弾き、老公は私のピアノに合わせて、ハミングしていました。
卿は自分の気持ちをフランス語で一生懸命話されます。
上流貴族社会では特に女性はフランス語を話しますが、一般的な会話は英語語です。
というのも、大抵の場合、会話は英語ですが、私はそれについていけないのが残念なのです。しかし、私は、英語を学ぶ時間も意欲もありません。いずれにせよ、私は
日常会話を理解し、餓死したり騙されない程度には英語を理解していますがそれだけでは不十分ではあります。」
ショパンは死なない程度にスコットランドであなたがたが望んだようにありがたく生きていますよ、と家族へ書いた。
何故だか、フレデリックはワルシャワ時代の家族共通の思い出であるドムシェフスキーのことを家族に書いた。ショパンは18歳の時、プルシャック家でショパン家はアマチュア演劇を披露していた、家族共通の思い出である。ショパン少年はドムシェフスキーの喜劇《バルバラ・ザポルスカ》の
パルタザル役を演じさせられた。そのほか、
ドムシェフスキーはワルシャワの劇場監督でもあり、ポーランドの貧乏な音楽家や孤児に
バルチンスキと共にお金を支援していた繋がりがあった。。。ショパンがポーランドを発つ時、ショパンの恩師エルスネル先生がショパンのために書いた曲にドムシェフスキーがショパンのために詞を書き、それをギターの伴奏で男性による合唱でショパンは見送られたのは1830年のことだ。ショパンはカリシュ、ブロツワフ、ドレスデン、プラハ経由でウィーンへ向けてポーランドを出国した。
それから18年経過したのである、
パリ、マヨルカ島、パリとノアン、その間には、イタリア、ロンドンの旅、そしてまたパリ、ロンドン、、、
ショパンが行き着いた先は地の果てスコットランド、しかもそれは、バルチンスキ、姉ルドヴィカ、の裏切りなのか…。
ショパンがスコットランド民謡を弾いたという曲はハイドンやベートーヴェン、シューマンも愛したスコットランドの詩人のロバート・バーンズによる詞の《オールド・ラング・サイン 》(日本では《蛍の光》として親しまれている)だったかもしれない…。
ショパン…自分の曲は何処へ行ってしまったのか…、…。
1777年 12月24日ソクウカ‐1847年 12月9日
ワルシャワ
俳優、歌手、演出家、演出家、
ワルシャワのテアトル・ナロドーヴィ劇場監督だった。彼はポーランドの貧しい音楽家や孤児院を支援して、フレデリック・ショパン家を支援した。ショパンのポーランドでの演奏会の評論を好意的に書きフレデリック・ショパンをポーランドで広めた。
ショパンの姉ルドヴィカの夫カラサンテとも孤児の支援会で知り合いだった。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです