フレデリック・ショパン、ショパン、地の果てスコットランドに来てまでサンド一家のことが頭から離れないフレデリックとは…

ショパンとサンド夫人とその娘ソランジュと養女オーギュスティーヌ ♬イメージ♬
ショパンは誰に対しても優しかった。
トーフィチェン卿の慰めのために自分の曲ではなくスコットランド民謡を弾いたショパン。老卿もショパンに合わせてフランス語で熱心に会話してくれたのだ。老卿は78歳でいい人だ…けれど、この先もここに留まることはショパンには考えられなかった。
フレデリックにお金を支援してくれているのは未だにワルシャワの家族なのだ、自分の居場所を自分で選択しているようで実はどこかで誰かに仕組まれているのではないかと苦しむようになっていたフレデリックだった。
時にはそんな自分が哀れにさえ思えるフレデリックだった…。
だからなのか、ショパンは哀れな者に優しかった。たとえ嫌いな人や過ちを犯した人であっても…慈悲深いショパンは親切なのだ。
モーリス、ソランジュ、クレサンジュ、ロゼール、パリから離れてもショパンは
彼らがどうなったか気がかりだった。そう、別れたサンドのことでさえも…。
「…ロゼールからの書簡(現存しない)には、『もう我慢できない』と書かれていました。」情勢の悪いパリに残っているロゼールにショパンは一か月以上前にロンドンから
書簡を送った。ロゼールには、ショパンの家族宛ての書簡をパリから出すようにショパンは指示してあったのだ。
だから、ロゼールはパリでショパンからの自分宛ての封筒の中に秘密で入っている、
ショパンの家族宛ての書簡が届くのを待っていなくてはならなかった。
ロゼールはそのショパンの家族宛ての書簡を、ロゼール自身がショパンの家族へ宛てて一筆書いた書簡に同封して、差出人はパリのロゼールでパリロワイヤルから郵便を出していたのだ。ロゼールはショパンからの書簡が
一か月程来ないため、待ちきれなくなりショパンに苛立ちをぶつけてきたのだった。
ロゼールにしてみたら、それは、そうなのだ、パリは治安も悪く公害も酷い、ロゼールは何処かに逃げ出したい気持ちを押さえてショパンに献身的に従って来たのである。
ロゼールはショパンが好きなのである、だから、嫌な役目も献身的だったと思いたいが、ショパンの姉ルドヴィカからのお礼を
ロゼールはいつもちゃっかりいただいていたからなのだ。使用人へのプレゼントも欠かさないショパンからも勿論だ…。
しかし、嫌いならいくらお礼を貰ってもそこまで危ない役目に付き合わないであろうから、やはり、ロゼール嬢は結婚もせずに
いつまでもショパンを慕っていたのである。
その、ロゼールが、ショパンの書簡を待ち疲れ、自分の書簡だけを書いてショパンの
家族へ送ると書いて来たのだ。
「私はあなたを待っていました。ですから、私はあなたに手紙を書こうとしていたのです。私はパリで恐怖と衝撃を受けたので田舎の友人の家へ行きます」ロゼールは「しばらくは私はパリに居ませんから暇をください、とショパンに告げた。
ショパンはロゼールがパリいなければ
グシマーワに代わりに書簡を送ってもらおうと考えていた、グシマーワにも以前から頼んでいたためショパンは困らなかった。
それから、ショパンはワルシャワの家族へ
サンド一家のことをどうしても伝えておかねばならないことがあった。
何故なら、姉ルドヴィカ夫妻はノアン村に来たことがあり、サンド夫人と交流があるからである、サンドはショパンを世話していることを理由としてルドヴィカにお金を長年集ってきたからである…。
ショパンはサンド一家の知っている限りを幾つか書いた。パリの暴動後は、ソランジュはパリで母サンドと会い、サンド夫人からパリのアパルトマンから立ち退くように命ぜられたこと、そのためソランジュは父親のいるブザンソンに住んでいること。
そして、サンド夫人については、
パリの悲惨な事件はサンド夫人が原因であることを知ったノアン村の人々は、
サンド夫人がノアン村に帰った時に村人達はサンド夫人を酷い目に合わせたこと。
そのため、サンド夫人はショパンが夏の間過ごしたことがあった、あのノアンの館に住めなくなっていたのである。それらのことを
ショパンはワルシャワの家族に伝えたのだ。更にショパンはワルシャワの家族に、
サンド夫人には以後関わらないようにという意味なのであろうか、、詳しく伝えた。
「…サンド夫人は
今はトゥールにいます。この数ヶ月間、彼女は多くの泥にまみれて、多くの人に迷惑をかけました。ノアン村の人々は、サンド夫人が暴言を吐いたことを非難しています。
内戦の火種になったからです。サンド夫人はあまりにも過激論者のため完成に失敗しました。自分の目先のことしかわからない人たちを煽った(あおった)だけです。…」
優しいショパンでさえ、サンド夫人を狂気と言ったことがあった。パリ暴動のことの原因になったとショパンはサンド夫人のことを手厳しく批判した。
サンドは遡ること、1840年頃からパリの新聞に定期的に執筆活動をしていた。1841年には、ピエール・ルルーと社会主義のレビューインデペンダンテを設立し彼女は独自の宗教観を論じていた。ショパンはサンド夫人の妄想癖に困っていた。
この年の1848年のパリの2月革命のどさくさに紛れ、サンドはパリで新政府の公式機関を立ち上げ、一度失敗していた新聞を再開したが、あまりな過激な発言で受け入れられず、
二度目も失敗に終わったのだ。
ノアンに帰れなくなったサンドは更に田舎のトゥールへ隠れたが、ショパンはお金に困ったサンド夫人が、姉ルドヴィカにまた
妄想の手紙を出してお金を集ることを予測して、ワルシャワの家族にサンド夫人には
以後関わらないように注意をしたのであった。
ショパンはスコットランドに居ても別れたはずのサンド夫人のことに苛まれるのである、
「パリではサンド夫人を批判したサンドの伝記が街頭で売っている。
オーギュスティーヌ(サンドの養女)父[ブロー]が書き、サンドを非難しています。」
ショパンは醜い話題がパリでは話題になっていると今まで見てきたサンド一家の複雑な
家庭崩壊劇をまた思い出していた。
サンドの養女オーギュスティーヌはサンドの息子モーリスの情婦にするためにサンドが
養女にした娘であった、そのオーギュスティーヌをサンドはお金目当てで不釣り合いな相手と結婚させたのである。それをショパンは
汚らわしい行為とサンドを非難しワルシャワの家族に伝えた。
ショパンはソランジュには同情的なことはかわらなかった。
サンド一家は狂っていることをワルシャワの家族へ念には念を入れ説明せずにはいられない、フレデリックはスコットランドにまで来てなぜサンド一家をまだ気にするのか、
ショパンはサンドとは別れたが、ソランジュからショパンに書簡がまだ送られて来ていたのだ、それはサンドがそうさせていたのだ。
それでもショパンはソランジュに同情的だった、養女オーギュスティーヌのことも哀れむショパン、ソランジュも実は捨て子だったという説があり、ショパンは自分も本当は捨て子であり、家族がお金のために貴族の慰め者として売られて行った身であることを、
サンドの暴露本で知ってしまったのだ、
姉ルドヴィカの友人伯爵夫人がノアンに来た時に真実を聞いたフレデリックだった。
だから、ソランジュもオーギュスティーヌも自分と同じ哀れな者としてショパンは
親であるサンドを非難した、それは、
ショパンのワルシャワの家族への叫びでもあり、サンド一家とのことが頭から離れない原因だった…だからショパンは終わらないのであった…。
ノアンヴィックのサンマルタン教会 
ラ・シャトルの近くにあり、シャトーロウの南東約3​​6 km(22マイル)にあり、道路に沿ってヴィックとノアンの2つの村がある。
ノアンヴィックの古代教会には初期の壁画のコレクションがある。

 
 

 
 

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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