F・CHOPIN、ショパン、マヨルカ村で孤立状態…


ショパンはマヨルカ島のパルマ村にある遺跡と化している誰もいない修道院に来て既に3週間が経とうとしていた。来たばかりは天候も素晴らしくパリやロンドンの都会の空気に比べれば数段空気は良く、病気のショパンにはそれだけが救いであったが、日を追うごとに、

パルマの天気は変わりやすいことに気づき、ショパンの体調は気候の変化に付いていくのがやっとの状態であった。

そして、通信手段は無論、手紙しかないのだが、その手紙でさえも1週間に1回しか郵便の収集に村には来ないのであった。

プレイエルに宛てた手紙やフォンタナに頼んだ両親へ宛てた大切な手紙もちゃんと届いたかショパンにはわからないのだ。フォンタナからの返事は全く来る様子もなく、約束のアップライトピアノもまだショパンの元へ送られて来る気配すらないのだ。

毎日の変わりやすいパルマの気候と同じようにショパンの心も曇ったり晴れたりと、

サンドとサンドの子供の他には誰もいない人里離れた修道院でショパンの心は不安になり始めていた。

ショパンは、フォンタナの返事が待ちきれなくなり、両親へ宛てた手紙を今度はグシマーワへ送り、グシマーワ宛ての手紙に同封したショパンの両親宛ての手紙をフォンタナに手渡してもらうようにグシマーワに頼んだ。

そして、ショパンの体調は、咳に悩まされ喉がつらいのであるが、それでもグシマーワのことをサンドとよく話しているというのに、グシマーワからも1通も手紙が未だに来ないのは、パルマ村というこの地が郵便事情が悪いためであり、そういう意味では悪魔そのものの国であることをグシマーワに伝えたショパンだった。

誰からも手紙が来ないのはこの村の住環境が最悪で郵便が来ない悪魔の国だからであり、グシマーワのせいではないはずだ、「君の心は今、晴れ晴れとしているであろうが、

それに比べて、このパルマ村にいる自分の心は絶望的です。」とショパンはグシマーワに

自分の置かれている現状の気持ちを正直に書いてたのであった。

そんな環境で、サンドの胸中はどんなものであったのであろうか。芸術家の男を手玉に取る強気のサンドでパリでは名を挙げていたサンドでさえも、このパルマ村の辺鄙さには

3週間で根を上げそうになっていたのだ。

グシマーワへショパンが辛抱強く手紙を書いているのを見つけたサンドは、ショパンの書き方では生ぬるいと、いらだったのであろうか、ショパンが書いた後に続いてサンドは、グシマーワに”手紙が全く来ない監獄よりも酷い目に遭っている”と苛立ちをぶつけ筆を走らせたサンドだった。

「私たちの手紙を受け取っていますか? 3〜4回は書いてあなたに郵便を出しました。

あなたの沈黙は私たちを不安にしています。

そして私たちは惨めな思いをしています。

そして、マルリア二夫人からよくないニュースが聞こえて来ました。

 私たちが試したすべての最も安全な郵送方法は、

BalearicのPalma de MallorcaのCanut y Mugnerat氏宛てで郵送してください。

封筒の切手にマークを付けます、そこに「Mme G.サンド夫人へ」と書いてください。そして

国境までの郵便料金を絶対に支払う必要があります。」

このようにサンドはグシマーワに郵送方法を指定し念を付いたのである。

そして、ショパンの体調が悪く、苦しんでいるのは、このような酷い気候のところにいるからだと、グシマーワに書いたサンドだった。

やっと、食事を作るためのストーブを手に入れたショパンとサンドであったが、ショパンは病気だというのにショパンを保護してくれる医者も薬もない惨い島であることを、さすがのサンドも嘆いていたのだった。

元気なのは、まだ15歳だったサンドの息子のモーリスだけだった。

ショパンはサンドには心を開いて話すことはなかったようだ。サンドは

息子のモーリスにショパンと話をさせて、ショパンのことをモーリスから聞き出していたよ

うだ。ショパンはピアノがないことは一番の苦痛の源であることをサンドはグシマーワに報告した。

ショパンは独自に自分で島の住人を使用人に雇った。しかし、それはショパンを慰めるどころか、ショパンに悔しい思いをさせている、だからショパンは結局は生活できるための準備の雑用で休むことができないのであることをサンドはグシマーワに事細かく報告した。

そして、サンドはグシマーワに話を続けた「私たちは家具を買いました。3日後には

私たちは美しい壮大な修道院に住むことになるでしょう。

私たちは、マジョルカ島の家主のような気分ですよ!

私はまだ自分の仕事には取り掛かることができません、

私たちはまだ解決していないことがあります。それは、ロバ、使用人、水、火がありません。原稿を発送するための安全な郵送手段もありません。

この状況では私は小説を書くことは出来ません、料理するのがやっとです。」

サンドのグシマーワへの手紙は、マルリア二夫人から条件付きで来たマヨルカ島だったであろうが、想像を絶する不便な環境を不安に感じながらも、必要ない家具まで買いそろえたなどの強がりを言ってのけたり、今まで、料理もしたことがなかったサンドが食べるために仕方なく料理をしなくてはならない状況に追い込まれたりと、サンド自身の精神状態も不安定になって来ていたようだ。



バルデモーサ・カルトゥジオ会修道院

(1809-1899年頃)

19世紀頃

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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