F・CHOPIN、ショパン、パルマで孤独に耐え

都会の生活に慣れていたショパンとサンドは、パルマに来て3週間というもの、

大自然に喜び勇んだのもつかの間で、パリのグシマーワやフォンタンそしてマッシンスキからも、誰からも便りが来ず、見放された重暗い気分になっていた。

グシマーワに返事の催促をしてみたものの、気分は納まらないショパンは同じ日に、

フォンタナに悲痛な便りを書いた。

ショパンはフォンタナにパリのアパルトマンのことはそのままにしておいて自分がいないことは家主には黙っているようにフォンタナに頼んだ。

プレイエルへピアノがなくて困っている手紙を書いた後、ショパンの体調は悪化したのだ。

そのため、約束のプレリュード集はまだ完成出来ないのだ。3週間前にはフォンタナにプレリュード集はもうすぐ完成すると書いたショパンだったが、「病気で手稿はまだ送れませんこの2週間はまるで犬のようだった」とフォンタナに告白するショパンだった。

「薔薇、オレンジ、椰子、いちじく」と羅列して書いたショパンだ、何かを言いたが言えなかったのであろうか、フォンタナにはわかる暗号であろうか、意味不明である。

部屋は18度だが風邪をひいたと語るショパン、しかし、ショパンはただの風邪ではなかったのだ。

サンドはグシマーワに同じ日にパルマには薬も医者もいなくて困っていると書いていたが、

なぜだが、病床のショパンを「マヨルカ島で最も著名な医師たちが私を診察してくれました。」とフォンタナにショパンは報告した。

3人の医者に診てもらったショパンは、絶望的な宣告を受けたのである。

3人とも同じように命は助からないであろうとショパンに告げたのであった。

ショパンはマッシンスキが医者なのに「どうしてパルマのような気候の所へ来たら気管支炎になることをマッシンスキ教えてくれなかったのだろう、とショパンは絶望の中でマッシンスキを許せない気持ちが湧いてくるのであった。ショパンはフォンタナに話を続けた「血を止めたり塗ったりするのが精一杯だったが、神の配慮で、私は今も昔と同じように生きています。プレリュード集が完成するかは神のみぞ知る、あなたはいずれ私の書いたプレリュード集を受け取ることになるでしょう。」

ポーランドには二度と生きて帰れない、ましてやショパンの病状ではアメリカ行きはもっと無理な話になってしまった、それならばせめてパリに戻りたいショパンだったがそれも今は無理と悟ったショパンは、サンドと住めるように廃墟の修道院の内装を飾ることが3日後に出来上がるから、「3日後にこのまま私は最も美しい修道院に住むことになる」とフォンタナに悪夢の中にいるかのように書いた。

パルマにはまだピアノは来ない…ショパンの今までの人生でこれほどまで長くピアノが傍にない日はなかった。このままだとショパンは肉体も魂も枯れていくのを待つだけだった。

マヨルカ島にあるのは、壮大な:海、山…、

病床のショパンの目に映る景色は、廃墟のカルトゥジオ修道院の冷たい石の壁だった。

ショパンが来る前は修道士がいた。それはショパンが来る前にスペイン総督が住職を追放したのだった。まるでショパンのために追放したようだとショパン自身は感じた。

捨てられたかのように建っているカルトゥシアン修道院だった。

ショパンは病気だというのにフォンタナに便りを書き続けた。

「パルマの近くでは、修道院よりも素晴らしいものを想像することは不可能です。パルマで知っている最も詩的な場所、それは墓地であす」とショパンはマヨルカ島に来たばかりの日には、自然に圧倒されて「人生はすばらしい。まだ私を愛してますか!」と、なぜこんな地に来てしまったのだろうとワルシャワのコンスタンツィアに叫びたいショパンだったが、3週間経った今はショパンに思い浮かぶのは「死」でしかなかった。

それでも、ショパンはピアノがないことは諦められず、プレイエルがどうなっているかフォンタナに調べるように指示したのだった。

プレイエルに手紙を書いた後、病状が悪化したことをフォンタナに告白したショパンだったが、プレイエルには今はもう元気だからと伝えてほしいと頼んだ。

そして手稿のことはプレイエルにまだ何もフォンタナからは言わないように指示し、ショパンが使っている銀行家レオには、

まだ友人トーマス・アルブレヒト(当時パリにあったザクセン王国公使館員)にはプレリュード集を送っていないとうことを伝えるようショパンはフォンタナに指示した。

そして、ショパンは友人トーマス・アルブレヒトに改めて手紙を書くのでフォンタナの手でパリのブルス宮殿宛てで投函するように伝えた。

また、ショパンは自分が病気であることは「人には言わないように」と、フォンタナに注意を促した。

なぜなら、今までもショパンは自分の身の上話しをねつ造されて来たため、嘘の話を作られて広められることへの嫌悪を感じていたのだ。

パリで社交界で名前が有名であることへの代償としてショパンは自分の嘘のイメージを作られることに我慢を重ねて来たのだった。

この日、ショパンへの便りもピアノも、ショパンが愛するものがショパンの傍に何もないマヨルカ島だった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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