F・CHOPIN、ショパン、マルセイユでやっとの思いでベットから立ち上がる
マルセイユのホテルの一室なのか、マルリアニ夫人の計らいで用意された部屋なのか(詳しくは不明)ショパンは今だかつてない時間を過ごしていた。
ショパンはマヨルカ島の断崖絶壁の独房で死ぬ思いで書き上げた≪プレリュード集≫、その時から、3か月が過ぎていた。ここマルセイユのベットの上で横たわるショパンは、まさに天国と地獄の両方を味わったことを思い出していた。
ベットの上で出来ることと言えば、やはり頼みの綱の友人へ便りを書くことぐらいであった。今のショパンはパリのサロンで最新の衣装に身を包みさっそうとピアノに向かいご夫人たちの注目を浴びていたかつての姿はもはやなかった。
ピアノの椅子に座ることさえショパンは出来ないほどショパンの体は弱っていた。作曲もドクターストップ状態で諦めなくてはならなかった。
しかし、そんな日が続いても、ショパンの頭の中から、音楽のこと家族のこと友人たちのこと、心の中に閉まってあるコンスタンツィアのことも忘れた日はなかった。
1839年3月、ショパンはフォンタナに便り書いたその同じ日に、続けて今度はフォンタナにも書いている。
ショパンという人は、1日にふたりぐらいには同時に手紙を書けるひとなのである。それも、
けっこう長い込み入った文章をだ。体は弱っていてもショパンの頭は冴えわたっていた。
ショパンがグシマーワに書いた開口一番は「ユダヤ人はドイツ人にはなれない、
ドイツ人はユダヤ人にはなれない、それは真実だ、だからといってそれが何になるんだ!
事実がどうあれ、私は彼らと取引せざるを得ないのだ!親愛なる友よ、君の親切には感謝す
るよ。けれど、私が今日フォンタナに指示を与えたので、私は君にまで迷惑をかけたくはないのだよ。」
ショパンは秘書としての窓口はフォンタナにと決めていたようだ。
グシマーワの事は友人ではあるが、お金のことはグシマーワ任すわけにはいかなかった。
ショパンは自分の健康状態をグシマーワに正直に話した。
「私の健康は水疱を着実に改善しています。その方法は、食事療法と丸薬および入浴です。
そして私には、疲れを知らない天使が舞い降りて来て私の体を支え私を立ち上がらせてくれたのです。しかし、私の足元まだふらついています。
あなたは私にこれからどうするつもりかとお尋ねですが、(グシマーワの手紙は現存しない
フォンタナからの手紙に書いてあったのかもしれない、これも現存せず)
医者は5月から6月までは、まだ様子を見たほうがいいと言っています。
その後は、夏が訪れたら、ノアンへの旅へ出ようとサンドは決めているようです。
私の財政がそれを可能にするならば、私は従うしかない。
そして、私の健康がそれを許すならば、パリまたはフランスの南での来年の冬を過ごそうと考えています。
私はひどく痩せてしまい、私は惨めに見えますが、私は力を付けるために食べています。
私の止まらぬ咳をあなたは想像してみてください、その時、スペイン人が私に対してした行いに私は怒りました。それは笑い話にもならない。 サンドは疲れ果てた私をその間ずっと見ているだけだった。私の看護は嫌がらせのようなもので良いとは言えない。なぜなら医者が良いということがすべていいことだとは限らないからです。
サンドは私のベッドを作り、私の部屋を片付け、温かい飲み物を用意しました。私の世話をするふりをしながら、サンドは私の物を奪うのです。
そして、サンドは私に来る手紙を私に渡さないですべて自分の物にしていた。
子供たちはこのような異常な環境であるため、不必要にいつも親であるサンドの気を引こうとして手が付けられない状態だった。
こうした異常な悪環境の下でさえ、サンドはそのことまでもを本に書いているのだ。」
ショパンは、サンドが医者が勧めるからと医者のせいにして大量の薬を買い集めることを不可解に思っていた。ショパンはあれこれ飲まされ動けない状態にさせられていた。ショパンにしたら医者がいいということ、ましてやサンドがいいということが自分にとってすべていいことではないと思いだし、力を振り絞り立ち上がったショパンだった。
サンドの押し付けはエスカレートしていた、ショパンはよくわからない薬漬けにされ、このままでは…と思っていた。サンドはたくさん薬にお金がかかったとマルリアニ夫人に高額な請求書を出していたのだ。
そういうサンドの監視下の窮屈な環境でショパンは過ごしていた。
欲の深いサンドはショパンを踏み台にして本を書いていたのだ。そういう女であることを人間観察に優れてたショパンは見抜いていた。
痩せた身体のショパン
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