F・CHOPIN、ショパン、プレイエルとの駆け引き、そして面会者とは

ショパンはグシマーワとフォンタナの二人に「やっと歩けるようになったがまだふらついています」と報告ていたが、サンドの看護は監視のようなもので、自分の大事にしている手紙など身の回りの物をすべて取り上げられたことをグシマーワに訴えていたショパンだった。

そして、サンドは母親としての愛情を子供に注がず、病床のショパンの世話をしているふりをしながらも、実は自分の名声と金の欲のためににショパンのことをネタにした作り話を書いていることに対して、サンドに最初に会った時に「こんな妄想癖の身勝手な女は嫌だな」思った印象は当たっていたなとショパンは感じていた。(このグシマーワへのショパンの手紙の後半でサンドの話の後、手紙は途中で紛失している)

それから2週間経った日の事である。ショパンは、その日天気も良かったのであろう。

フォンタナに心配かけたと思い、ショパンはまた筆を執った。ショパンはとても気分が良かった。そこにはピアノの前に座るショパンの姿があった。

ショパンは少し痩せたが、ショパンは歩いて、話をして、食事をしていた。この誰もが出来る当たり前のようなことがショパンは当たり前に出来るようになったことに喜びを感じていた。

そしてフォンタナにショパンは言った。「私はあなたに難解な文章を書かなくてもよくなったことを読んで感じるでしょう。」

けれども、やはり、次に仕事のことをフォンタナに話すショパンだった。

「私のプレリュード集はプレイエルの献呈に決まれば私はそれで好ましいと思います。

プレリュード集はまだ印刷されていないので、まだ充分に交渉する時間があります。

そして、バラードはシューマンに献呈しようと考えているが、〈私の友人〉という言葉は

削除してほしいです。

ポロネーズはジュリアン(フォンタナのこと)、君に献呈します。

ジョゼフ・クリストフ・ケスラーに(ドイツのピアニスト)には何もあげません。

もしも、プレイエルがバラードを献呈してほしいと言って来たら、その時は、プレリュードの献呈はシューマンに変更する。そのように交渉してください。」

ショパンは出版の話がまだまとまっていなかったが、献呈を付けることをプレイエルが交渉してきたのであろう、フォンタナにこのような条件を付けて交渉するように頼んだのだった。

そして、ショパンがワルシャワ時代に宮殿の演奏会で共演したことがあったカチンスキが会いに来たのだった。

カチンスキは兄弟でアマチュア音楽家であるが、ピョートルはヴァイオリン奏者、ユゼフはチェロ奏者である。(兄弟のどちらが来たかは不明)

ショパンはアマチュア音楽家とは会わないと決めていたが、カチンスキだけは唯一、面会したのだった。カウチンスキの本当の目的は不明である。

そして、この後がショパンの商売の腕の見せ所であった。

「プレイエルと話が付いたら、プレリュード集の献呈はプロストに変更になったとあなたは伝えてください。」と、フォンタナに指示。

「それから、その新しい資金得たらグシマーワに500フラン渡してください。

後の残りの2500フランは私に送ってください。どうか慎重にことを運んでください。

こんな自分だが僕を嫌いにならないで手紙をください。

私はあなたにたくさんの頼み事をしましたが、あなたは喜んで引き受けてくれると信じています。」

ショパンはフォンタナに取引にゆさぶりをかけるように指示した。

「ユダヤ人はユダヤ人でしかなく、ドイツ人はドイツ人でしかない、どうしようもない連中と仕方がないが取引しなくてはならぬ」と悟ったショパン、「商人ショパン」が誕生したのだった。

ジョセフ・クリストフ・ケスラー(1800年8月26日 - 1872年1月14日)ドイツのピアニストで作曲家

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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