F・CHOPIN、ショパン、巧みに人の心を捉えるショパン
ショパンはマルセイユに来てからもうすぐ1か月が経とうとしていた。
フォンタナに頼んであった出版に関しては、プレイエルとの交渉が難航していたが、
ショパンの才能は音楽を書いて演奏するだけではなく、商売の才覚を発揮したのだった。
プレイエルとの交渉には正攻法では通用しないことがショパンは分かり、ショパンが計算した思惑通りに事が決まったのだ。
≪プレリュード集≫のフランス版の献呈はプレイエルにとショパンは承諾した。恐らくは、出版はショパンの当初提示した金額に決まったのだ。
そして、ドイツ人のケスラーには何も献呈しないとフォンタナに伝えさせたショパンの計算も当った。
「プレイエル、シューマン、プロブストにはそれぞれ献呈があるのに自分には何もないのか、」とケスラーが慌てるであろうと予測したショパンの思惑通りになったのであろう。
≪プレリュードの集≫のドイツ版はケスラーに献呈することを承諾したショパンだった。
そして、その他、グシマーワに家具などを分け与えたお礼として、ショパンがグシマーワから予定していた500フランをグシマーワは直ぐにショパンに送ってきたのだった。
それが3月の末のことだった。ショパンはお金のことの礼状をグシマーワに書いた。
「家具の運搬費は実費でお願いします。」とグシマーワに伝えた。プレイエルのことは
自分の思い通りになったことは、「私の他の収入に関しては、神よ私を守れ!あの馬鹿なプレイエルは私を陥れようとした!やはり自分の予想が的中した、あいつは僕を陥れようとしても無駄だったことに今頃は後悔しているだろう、プレイエルは壁に頭をぶつけてみても後の祭りさ!」と、ショパンの出版の戦いがこうしてひとつ終わったのだった。
グシマーワには「夏になったら、ノアンで再会しようではないか」と、ショパンはグシマーワに伝えた。
そして、サンドはグシマーワの女でもあるため、ショパンはサンドの事はグシマーワには悪く言えなかった。グシマーワにサンドを持ち上げることを伝えておけば、サンドのご機嫌も取れるのである。ショパンはサンドが書いたゲーテ、バイロン、ミッキェヴィチに関する本が上手く書けていることが気になったショパンは、まず、サンドの書いた本が優れていると言いながらも、翻訳者は誰なのかをグシマーワから聞き出そうとした。
そして、やっと出版のことで収入が得られたところに、サンドからも金を巻き上げられたらショパンはたまったものでないため、
今度はサンドはミツキェヴィチと手を組んで金儲けをしたらどうかとグシマーワに話を持ち掛けておいたショパンだった。
それから、ショパンはテナー歌手で有名だったアドルフ・ヌリーと1836年12月にパリのサンドの夜会で共演したことがあった。そのヌリーがイタリアのナポリで自殺したという情報を得たショパンは衝撃を受けたことをグシマーワに話した。自殺したヌリーはパリ音楽院の教授でもあった。
ショパンは毎日懸命に生きていた。マルセイユで健康は回復しつつあって、外出して散歩も出来るようになっていたが、それはサンドの監視が付いてのことだった。
そして、マルセイユの印象をショパンはグシマーワに語った。
「マルセイユは古くて醜い場所ですが、古代的ではありません。
そして退屈させる場所です。そのため、来月はアヴィニョンに引っ越すつもりです。」
「今度、ノアンで君と会ったら、君の口ひげと僕の頰を合わせて挨拶しよう。しかし、僕の頰ひげはもう生えていないのだよ、君の口ひげは今も健在であろうか?」
ショパンは自分の今の姿をこう例えてグシマーワと随分会っていない心境を話した。
「僕がパリにいない間は、僕の知り合いの貴婦人たちのご機嫌を君が僕の代わりになって、
ご夫人方の手と足に接吻し、ご機嫌を取っておいてください、」
グシマーワはご夫人のご機嫌を取ることが上手であろうとショパンはグシマーワをおだてた。
そして、ショパンは自分の芸術家としての誠意である言葉で結んだ。
「もっとも崇高な感情が死ぬことがないように、私は君のために署名をします。
本物の修道士、ショパン 」
ショパンは人の心を捉えるのが上手いのであった。
19世紀頃 家具とピアノのある部屋
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