F・CHOPIN、ショパン、マルセイユからイタリアへ、そしてマルセイユを発つ…

1839年4月、マルリアニ夫人からの手紙(現存せず)をマルセイユでショパンは受け取っていた。そこに書かれていいたことは、グシマーワが病気であるということであった。

ショパンの健康の方が悪かったはずだったが、 グシマーワにショパンがお見舞いを述べなくてはならなくなった。マルセイユにいるショパンはグシマーワからも手紙を受け取ったばかりだったため(現存せず)ショパンはグシマーワを心配していた。サンドは、ショパンは心が正直な青年のため、友人からの手紙を読んで、サンドには見せないうれしいそうな表情や態度を見るとサンドはいらいらするのである。そのためサンドはショパンが大事にしていた手紙は取り上げ処分したりした可能性がある。

ショパンがそうして友人や大事な人から貰う手紙で元気づくことが、サンドがいくら

文章が書け嘘の言葉を並び立てても、それを超えることは出来ないことがサンドには腹が立つのである。

ショパンの魂まではサンドも支配はできない、ショパンの大切にしているものを取り上げる悪魔サンドだった。

ショパンはそのことは気が付いていたため、ショパンが書いた手紙の後に、サンドが付け足して書く手紙にショパンは自由に書けないときがあった。

ショパンはそれでも、グシマーワにどうしても頼まなければならないことがあった。

そのため、サンドとはうまく仲良くやっているかのようにショパンは書いてサンドのご機嫌をとって書いたショパンだった。

グシマーワとサンドの仲はグレーな部分で、ショパンでさえ慎重に両方のご機嫌を取らなくてはならないのだ。

ショパンがグシマーワに聞きたいことがあった、それはワルシャワのショパンの両親のことであった。ショパンの母がパリに来るという噂をマルリアニ夫人が手紙に書いて来たとうのである。それがショパンには信用できないことだったのだ。

ショパンは両親の性格はよくわかりすぎるほど解っていた。ショパンがマルセイユから両親に手紙を出すのは3度目だった。しかし、今まではフォンタナに頼んでパリからワルシャワに送ってもらっていたのだ。フォンタナが出してくれた返事はマヨルカ島を離れる直前に、

サンドが郵便局留めにしていた分をショパンが危うく取り返したのだった。(しかし現存せず)

今度の事は、噂の出所が、マルリアニ夫人なため、今度はグシマーワに責任を取らせるために、この噂がほんとうか確かめるために、ショパンは「両親宛ての手紙を同封するから、

グシマーワにパリからワルシャワへ郵送してほしい」と、伝えたのだった。

そして、両親から返事がショパンに来ない場合はマルリアニもグシマーワも信用できないと判断材料にしたいショパンだった。

そして、グシマーワに「この噂のことで何か少しでも知っていることがあるのなら返事をしてくるように」詰め寄るショパンだった。

なぜなら、ワルシャワでショパンの父ニコラスは身体が弱っていることをショパンは知っていて、母ユスティナが介護が必要な父をワルシャワに置いて、母が一人でパリに来るような

性格ではないことはショパンが一番よく理解していたからだ。

大事な両親が離れ離れにさせられることがないようにショパンはグシマーワからもマルリアニ夫人に頼んでほしいショパンであった。

グシマーワは外出を禁止されている状態であった、それが何を意味するかショパンはわかっていた。

「僕が君の傍にいてあげられたなら君の看病ができると思う」と、ショパンはグシマーワに話した。自分が独房生活からマルセイユでも自由でない生活を強いられているから、

今の君の気持ちは僕には分かるのだよとショパンは言いたかったのだ。

そして、グシマーワがいてくれたら、サンド一家がグシマーワに愛情を注ぐだろうから、とショパンは書いて、グシマーワはサンドが好きであろうから、グシマーワとサンドがお似合いだとショパンはサンドをグシマーワにお返ししますと言いたかった。

ショパンはかつてヴォジンスキ家のマリアがグシマーワとサンドの事を「不幸な恋愛ですこと」と、マリアが皮肉を言ったことがあったことを思い出した。グシマーワとサンドが恋人であることはショパンも他誰もが知っていたことだった。

ショパンはサンドのことは悪魔と思いながらも天使と持ち上げておけば、サンドもグシマーワの両方のご機嫌を取れるため、自分の大事なワルシャワに残して来た家族の身の振り方も安泰ならばショパンは何とでも言ったのであった。

サンドのほうも抜かりなく、この手紙の後には続けて書いた。

「マルリアニ夫人からグシマーワが具合が悪いと聞いて憂うつで、新しい小説をベットに入ったままで書いているため、自分はこの小説を生み出すのが難産で鉗子が必要だから」と書いたのは、「こんなにたいへんなのだから新しい小説を書いてほしければもっとお金をください」とサンドはこんなにたいへんなのだからとグシマーワに言っているのだった。

その手紙から約2週間が経ったある日、

ショパンは今度はフォンタナに連絡をした。

フォンタナに3月末に書いた手紙の返事が来たからだ。(これもまた行方不明か現存せず)

ショパンはフォンタナに指示した家具がフォンタナが何処へ売りさばいたかの詳細の手紙を受け取っていた。(現存せず)

ショパンはフォンタナとの友情には何とお礼を言っていいのかわからないほど感謝していた。そして、フォンタナの近況は身体の具合が悪いと聞きショパンは心配であった上に、

前から病気だったマッシンスキが喀血したことを知り、ショパンは戸惑っていたのだった。

ショパンの友人たちがなぜこんなにまで具合が悪くなってしまうのか、ショパンは辛かった。

そして、この人もまた、ショパンの友人でパリ音楽院の教授だった有名な歌手のヌリーの死、それも自殺だったことでショパンのショックは大きかった。

ヌリーの遺体はイタリアのナポリからパリへ還る途中にショパンが滞在しているマルセイユに寄ったのであった。

ショパンはヌリーとの最後のお別れに出来る限りのことをしてあげたかった。

ショパンはヌリーの遺体を待っている間も、自分の母がパリに来るというマルリアニの手紙の内容が不安でしかなかった。

なぜなら、そのマルリアニの話の出所はハプスブルク家のプラーター貴族であることをショパンはグシマーワから聞き出した。(そのグシマーワの手紙は現存せず)からである。

それだけで既に母がパリに来ることは嘘であることを突き止めたショパン、つまり、両親を引き裂くというマルリアニ夫人のショパンへの脅しである。

それをフォンタナへショパンは報告した。そして、マルセイユにはこれ以上は長居できないから5月になったらマルセイユを離れるつもりであった。

その後は南の暖かいところへ行くつもりだとフォンタナに話したショパンだった。

そしてあのヴォジンスキ家のアント二イはショパンに借金をしたまま逃走中で全くヴォジンスキ一家は音信不通であることをフォンタナに話した。

ヴォジンスキ家のような詐欺行為はポーランドの習慣にはないため、

ラシボルスキがフォンタナを非常に高く評価している理由はフォンタナが

ヴォジンスキ家のような詐欺貴族でないからだとショパンはフォンタナを褒めた。

ヴォジンスキ家はポーランド貴族で通してきているが、本当は先祖はイタリアの出であり

ショパンはそのことを知っていて、この一家はポーランド人ではないことを隠して詐欺行為を働いている卑怯者であるとフォンタナに明かしたのだった。

ショパンは「ポーランド的」という言葉と「ポーランド人」という言葉を使い分けて、その本当の意味を共感し合える仲間はフォンタナであると言っているのだ。

そして、本当は南の国でのんびりなどしている気はなく、早くパリに戻りたいことをフォンタナに告白したショパンだった。

ショパンはフォンタナに懐かしいショッセダンタン街の住み心地はどうかを訊ねて、

家賃や何階に住んでいるかの情報をくださいとフォンタナに自分がパリに戻ったら何処に住もうか検討したいことを伝えた。

それから、ショパンにはグレーな部分のグシマーワについてフォンタナはどう思うか、よい人と思うかを教えてほしいとフォンタナに意見を求めたショパンだった。

フォンタナの意見を聞いてからグシマーに書く手紙の内容を決めようと思うショパンだった。

もう一つ、仕事のことはひと段落したかのように見えたプレイエルとのことも、ショパンには出版の交渉中ただ一度きりしかプレイエルから手紙が来ず、ショパンはそのことも不信感を抱いていた。そのことも、フォンタナにどうなっているのかを聞きたいショパンだった。

ショパンはヌリーの遺体がマルセイユに着き、ヌリーの遺族の希望でショパンは聖体奉挙の間、シューベルトの≪星≫をオルガンで演奏したことをフォンタナにショパンは話した。

そして、そん頃、パリでは、ショパンがいない間に、シューマンの企みでクララ・ヴィークがショパンのエチュードを弾いていた。

それは、ショパンのエチュード≪黒鍵≫であったため、ショパンは≪黒鍵≫は何のためにどうやって弾いているか知りもしない素人には聴いていて面白いものでないため、何もこの曲を演奏しなくても他にももっといい曲はあるのに、そのうえこれを下手くそに弾かれたら最悪だと思ったショパンだった。

これでは作曲家として自分の名誉が保たれないのではと、シューマンの気の悪さには

相変わらずだと思うショパンは「クララは私の≪黒鍵≫が上手く弾けましたか?

つまらない演奏であったであろうが、何もしないよりはマシという程度だったことでしょう」とフォンタナにシューマンとクララの悪行を確認した。この二人についてはもう何も言う価値もなとショパンは思った。

そして、フォンタナには大事な仕事の話がまだショパンはあった。

それは、フォンタナには自分が指示した通り出版の交渉で奔走してもらったことを思うと、ショパンはフォンタナにも幸せになってほしかったのだ。

だからこそ、ショパンは「私の手稿を大切に扱ってください」とフォンタナに念を押した。

そして、プレイエルにプレリュードを献呈してから何も音沙汰がないことを不信に思っていたショパンだったが、フォンタナの返事によれば、(現存しない)プレイエルが2度目のか何度目かの裏切りがあったのだ。

だから、ショパンはフォンタナに言った。

「≪プレリュード集≫が出版される前に誰かの悪意で盗まれて印刷されるとしたら、それはプロブストの汚い奇計のなせるわざです。それらのすべての行いは地獄に落ちろ!

 私がパリに戻ってきたときには、プレイエルとプロブストとも私は彼らと腕を組んで歩くことはもうないでしょう。

ドイツ人=プレイエル!、悪漢=プロブスト、ブタ=ケスラー、サメ=シュレジンガーなど!

悪党の名簿を完成させることをフォンタナ君に任せる!あなたは私と同じように今それらを知っているからです!」プレイエルとの出版の話が落ち着いていたかと思っていたショパンは、全部の出版社から裏切られたのだ。ショパンはプレイエルはカルクブレンナーと繋がっていることは分かっていたことだが、カミーユ・プレイエルの親であるイグナッツ・プレイエルががスイスのトゥルン近郊ルッパースタールの出身であることを思い出した。

それは、スイスに移住したヴォジンスキ家の亡霊が関係してい後ろで糸をひいていることをショパンには見えたのだった。

この時、1839年の4月25日だったが、1836年9月にヴォジンスキ家のマリア譲から(つまりはヴォジンスキ家からの話)当時ドレスデンで夏の間ショパンがマリアとアント二イを教えに行っていた頃、ヴォジンスキ家のピアノが壊れているからプレイエルピアノに買い替えたいという話を持ち掛けられていたことがあった。それは、ヴォジンスキ家のためにショパンに買ってほしいという申し出であったのだ。その話はショパンは無視していた、その後、パリにあるピアノをショパンはヴォジンスキ家に取られる羽目になる出来事があった。

というように、ヴォジンスキ家はショパンと関わっていないようなふりをしならがも、いつまでもヴォジンスキ家はショパンに付きまとっていたのだ。

この後も、ショパンは出版の苦労が絶えなくなるのであった。それでもショパンは

フォンタナとマッシンスキとグシマーワとは仲間でいようと伝えた。

「フォンタナにマッシンスキとグシマーワには私の分け前を与えてやってください。あなたのショパン」

ショパンがフォンタナに自分の置かれた立場の悲痛な叫びを書いた一方で、サンドはその

3日後にマルリアニ夫人にショパンに関する報告書を書いてパリへ送っていた。それは、ショパンが「遺族に頼まれたため亡くなったヌリーのために弾いた」とフォンタナへ短く書いた内容に比べ、

サンドはヌリーの死に対してとても長い報告をマルリアニ夫人に書いているのだ。

サンドの報告はとても一方的なショパンへの妄想が入っていて相変わらず疑わしいのである。

サンドのマルリアニ夫人への報告はこうだ。

「ヌリーの葬儀は自殺のため、葬儀の儀式行ってよいかを司祭が判断に困っていた。そして、それはたいへん粗末な葬儀になりました。

私は聖歌隊が意図的に下手くそに歌ったのかわかりません。私はそのような調子の悪い歌を聞いたことがありません。(下手くそなのは好意的でない葬儀だったとサンドは言っている。葬儀に難癖を付ける悪魔サンド)

ショパンはオルガンを弾いて自分自身を犠牲にした。(ショパンはそのように思っていない)

とにかく、私たちの少年は(ショパンは少年ではない、この時29歳である、サンドはショパンを見くびっている)より調和のとれていないオルガンのストップを使うことによってそれを最大限に活用しました。

そして彼はヌリーが使用した情熱的で輝く音ではなく、別の世界からのこだまのように柔らかい明白な音量でシューベルトの星を演奏しました。

群衆の中のせいぜい2、3人だけが意味を感じ、目に涙を流し、彼らの席に50セントを払うことに好奇心を注いでいました。これはマルセイユでは前代未聞の価格でした。そのため群衆はがっかりしたのです。

さようなら、最愛の恋人(サンドは男という男はどれも恋人なのだ、ヌリーまでもサンドと関係があったかは不明であるがマルリアニにお金を請求したいサンドなのであろう )

私はヌリーに優しい接吻を与える。

ショパンが眠りの神の中にいなければ、ショパンはヌリーの足元にいるでしょう。(ショパンの死を意味する不気味なサンドだ)

これらの数日の間に彼は私が良いと思う方法で眠気によって寝ています。

しかし、ショパンは積極的でそれに反抗して起きようとします。

ショパンは天使です。(嫌みであろうか、ショパンは悪党が自分の利益のために都合のいいように自分のことを神とか天使とか言い偶像視することを一番嫌っていた)」

(サンドは極度の空想壁が止まらぬようで、まだ長く書いている)

ショパンの優しさ、そして忍耐力は時々私を苛立たせます。

私は彼の存在全体が繊細過ぎ、絶妙過ぎ、そして私たちの荒々しいそして重い地上生活の中で長く存在するには完璧すぎる。(ショパンはこの世に合わないから早く死んでほしいと言っている悪魔サンド)

マヨルカでは、死ぬまで病気になったとき、(誰がそんな目に遭わせたかそれはサンド)彼はプレリュードの香りに満ちた音楽を作曲しました。(それを世話したと強調しお金を貰いたいサンド)

しかし、私は空に彼を見送ることに慣れている(あの世へ送ることに私は慣れているという恐るべしサンド)

彼が生きているのか死んでいるのか私はどうでもいいです。

彼は他の人が想像するような世俗にまみれることとは無縁です。ショパンはただ生きているだけです。」

サンドはショパンに手がかかることを長々説明し報告書を終え、マルリアニからの送金を待っていた。

このマルリアニの報告を終えたサンドはショパンをイタリアのジェノヴァへ連れて行った。

ショパンはグシマーワに4月にジェノヴァに行く計画は無理だと思うと書いていたが、

5月4日サンド親子とショパンはジェノヴァへ行き20日にまたマルセイユへ戻っている。

それを、ショパンはグシマーワへジェノヴァへ行ったことを直ぐにマルセイユから短く報告した。

ショパンはずっと以前から、イタリアへ行く夢を持っていた。しかし、このジェノヴァへの2週間ほどの旅の記録が何もないのである。恐らく、家族でもないサンドとその子供といってもモーリスは15歳、大きくなっているふたりの子供を連れたサンドと青年ショパンの奇妙な関係性はイタリア人には理解されなかったのであろう。

特に、教会への出入りは夫婦でない関係の男女が一緒に出入りすることは出来なかった。マヨルカ島でもそうであったように、世間からは相手にされなかったのであろう。

ショパンはサンドと同類の変人と思われ、イタリアへの夢はサンドによって足を引っ張られた形になった。そして、イタリアの出版社との新天地の交渉どころろでなかったのだった。

ジェノヴァからマルセイユへ戻るとき、海が荒れてショパンの病み上がりの身体には堪えたため、この後はノアンへ行き、体調を取り戻そうとショパンはグシマーワへノアンへどうしても会いに来てほしいと伝えた。

グシマーワが来てくれれば、煩わしいサンドのご機嫌取やサンドの監視、そして煩わしいサンドの子供の相手から解放されたいと思うショパンだった。

そして両親へ宛てた手紙を出してほしいとグシマーワに頼むショパンだった。

ショパンは、グシマーワへサンドの事を「君の女性を尊重します」と書いて、サンドはグシマーワの女であるから、もうこのおかしな関係は終わりにしようという意味でショパンは言った。

それにしても、ショパンのイタリア旅行の記述は特別何もないのである。

ショパンは旅に出るといつも詳しく旅で感じたことや体験したことを書くひとであるはずが、何も書いていないのは、その後にサンドの追伸が書かれてあるからだった。

サンドは、グシマーワのことを「私の夫」と書いている。

ショパンの事は「少年」とさげすんで書いているサンド。ショパンは少年ではない、もう、今に30歳になる。

サンドは「ジェノヴァからの帰りの海が荒れてショパンは英雄のようだったから私たちはお金を貰う権利があります。」とグシマーワにマルリアニからお金を貰えるように話した。

サンドはショパンはイタリアへ連れて行っても死ななかったから、それならまだショパンはお金になると思ったサンドは、これからノアンに連れて行く計画をグシマーワに話し、グシマーワにもノアンへ来るように伝えたサンドだった。

グランド ホテル ボーヴォ マルセイユ  19世紀頃 ショパンがマルセイユで滞在していたホテル

グランド ホテル ボーヴォ マルセイユ 

建て替わり同じ場所に現存している

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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