1843年4月になっても依然としてフィルチ親子はショパンが苦労をして築いてきた音楽活動を横取りして図に乗っていた。
ショパンにとってはカールの事は権力者からの圧力で断れない所詮はお金を得るためのひとつの方法でしかなかった。なぜなら、それはリストという影の嫌がらせであることはわかっていたからであった。リストが、よりによってポーランドからショパンに表面は口先でよりを戻そうとして友好を装ってきたが、それはショパンの神経を逆なでしたことは間違えない。ショパンは一度裏切られたリストを信じてはいなかった。それは的中した、レルシュタープがパリに来て直ぐにしたことは、ショパンへの人種差別的な誤った評論、そして手紙を偽造した犯罪を過去に犯したことへの謝罪ではなく、
ショパンをまたいで、金になる権力者のパトロンが付いている、リストの手先のフィルチ親子に取り入りカールのおべんちゃらの嘘を凝りもせずに自分の評論誌に載せることであった。
レルシュタープの父は音楽出版業を営み作曲家でもあったヨハン・カール・フリードリヒ・レルシュタープである。親の七光りでレルシュタープは『Vossische Zeitung』雑誌に論評を載せ、自ら音楽雑誌『Iris im Gebiete der Tonkunst』を1830年から1841年にかけてベルリンで刊行した。しかし、彼はベルリンにおけるガスパーレ・スポンティーニの影響に関して無遠慮に批判をおこなった咎により1837年に投獄されている。しかも、レルシュタープは親子二代にわたりベートーヴェンの反対者であり、ショパンの作風に対して(特にマズルカ作品7をこけおろした)人種差別を行った人物なのだ。しかも、ショパンの手紙を偽造して自分の雑誌社宛てに出し、でっち上げてショパンをひどくののしったのだ。
リストとレルシュタープの関係も友情ではなく損得勘定でしかなかったふたりであろう、リストには嘘つきの影響をレルシュタープが与えたと言われている。
リストがポーランドに行っているということはショパンにとっては人質を取られているようなものである、リストは案にレルシュタープとフィルチ親子を優遇するようにショパンに圧力をかけたのだ。
フィルチはつけあがる一方だった。「エラールでのカールの演奏会は素晴らしい成功であった」フィルチは言った。
カールひとりでは演奏会は成り立っていないはずである。しかも、楽器製造会社のエラールで、楽器製造に力を注いでいたのはショパンであったはずだ。カールは小品を少し弾いただけだ。続いてほらを吹くフェルチ…嘘つきはレルシュタープからリストに伝わり、そしてフィルチに伝染した。
「大勢のお客が入り、2000フラン収入があった。」これが本当なのか、どう分配したかは不明である。金のことは後ろめたいフィルチはここで初めて「ショパンのおかげです」とニヤリと付け足す。「ロンドンのジャーナリストのパティと、ベルリンからとレルシュタープが来ました」
リストが送り込んだスパイのレルシュタープはちゃんと来ましたと、リストへ報告したフィルチ。「我々の計算通り、レルシュタープはカールを持ち上げたため、これで、ロンドンとルイ・フィリップへのコネが出来ましたよ、」と、リストに報告したフェルチだった。
「明日は、オスモン侯爵夫人の食事にショパンと一緒に招かれています」フィルチは完全に立場をわきまえない嘘つきな発言になっていた。
これは、ショパンが招待されているオスモン侯爵夫人の晩餐会にフィルチ親子を紹介するように、リストの回し者のレルシュタープがショパンに圧力をかけたのだ。
オスモン公爵夫人は、フランスの政治家で、ショパンが毛嫌いしていたルイ - フィリップ王によって選ばれた公爵のメンバーのひとりエティエンヌ・ドニ、デュドゥ・パスキキエの愛人なのだ。ショパンは当然、それを知っていたため何もかもが断れないがんじがらめのショパンだった。
ジャン=バプティスト・イザビーによる肖像画から
アデル・オスモン
【1781年2月10日ベルサイユ宮殿、フランス-1866年5月10日フランス、パリ(85歳)】
貴族、作家
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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