~ショパンより4つ年上のスペインの天才作曲家ファン・クリソストモ・ヤコボ・アントニオ・デ・アリアガ・イ・バルゾラ~

ファン・クリソストモ・アリアガ(1806年1月27日 - 1826年1月17日19歳没)

(ファン・クリソストモ・ヤコボ・アントニオ・デ・アリアガ・イ・バルゾラ)

アリアガは、スペインの バスクの作曲家でした。彼は亡くなってから「スペインのモーツァルト」と呼ばれるようになりました。彼は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのように、彼は神童と呼ばれ、19歳という若さで亡くなった熟練した作曲家であったからです。

アリアガとモーツァルトは、同じ洗礼名を持ち、二人は同じ1月27日が誕生日でした。


ファン・クリソストモ・アリアガは、もしもモーツァルトが生きていたならば、モーツァルトが50歳の誕生日の日に彼は生まれたのでした。

彼は、スペインのバスク地方のビスケーのビルバオで生まれました。彼の父(ジュアン・シモン・デ・アリアガ)と、まだ少年だった彼の兄が最初にファン・クリソストモ・アリアガに音楽を教えました。

父のジュアンには音楽的な才能があり、17歳のときベリトリアの教会のオルガン奏者を務めていました。ジュアンはゲルニカの村で働き、1804年にビルバオに移り住み、羊毛、米、ワックス、コーヒー、その他の商品の商人になりました。

1821年9月、アリアガの父親は作曲家のホセ・ソベジャーノ・イ・アヤラ(1791–1857)に勧められて、息子のファン・クリソストモ・アリアガをパリに行かせました。

その年の11月にファン・クリソストモ・アリアガはパリで作曲を学び始めました。

ヴァイオリ二ストで作曲家のピエール・バイヨー(1771年10月1日-1842年9月15日71歳没)と、ルイジ・ケルビーニ(1760年9月14日- 1842年3月15日82歳没)に対位法、そして、

フランソワ=ジョゼフ・フェティス(1784年3月25日-1871年3月26日87歳没)にパリ音楽院で学びました。、ファン・クリソストモ・アリアガはバイヨー、ケルビーニ、フェティスの3人の教授に気に入られたのでした。

1823年、前年にパリ音楽院の監督になったケルビニーに、ファン・クリソストモ・アリアガは才能を認められました。

アリアガはすぐにフェティス教授のクラスのアシスタントになり、音楽院の仲間の学生と他の教員に注目されました。

ケルビーニは、アリアガのフーガを「傑作」と呼びました。フェティスはケルビーニほどは、アリアガの才能に対して発散的ではありませんでした。

アリアガが全ての人に感銘を与えたのは洗練されたハーモニーの使用でした。

フェティスはアリアガのオペラ「ロス・エスクラヴォス・フェリス」に注目し、「ファン・クリソストモは素晴らしい完全に独創的なアイデアを含むスペインのオペラを書いた」と述べました。

アリアガはパリでの生活は父親によって充分に援助されていましたが、

ケルビーニ教授やフェティス教授からの賛辞と評価と約束事に対するアリアガの献身的な創作活動は、彼の健康を害する原因になりました。音楽院でのアリアガの生活は彼の寿命を犠牲にしました。

彼は、20歳の誕生日の10日前、働き過ぎで亡くなりました。彼は結核であったかもしれませんが、結局は過労死であったともされています。

彼はパリで19歳で亡くなりました。当時、彼はモンマルトルの無名の墓に埋葬されました。しかし、スペイン大使館の働きかけにより、1977年以来、作曲家を記念してサントノレ通り 314番地(パリ1区)の彼の住んだ家に記念プレートが付けられました。




**ショパンエピソード**

フレデリック・ショパンがパリへ行って、パリ音楽院の門を叩いたのは1831年の12月でした。ショパンはケルビーニ教授を「ひからびたでくのぼうで、彼はだらだら喋っているだけ、しかし尊敬しなくてはならない(尊敬できないの裏返し)、彼の作品は勉強のために使うだけです。」と語りました。

そして、ショパンは同じく音楽院の教授だったフェティスにも会いに行きましたが、ショパンは音楽院に例え入ったとしても、学生として勉強することが既にありませんでした。

かといって、アリアガのようにフェティス教授やケルビーニ教授のアシスタントにもショパンは雇ってもらえませんでした。リストが人種差別を受け音楽院に入れなかったように、ショパンがポーランド人であったことも当時は要因だったかもしれませんが、それだけではなくショパンの才能や容姿や性格は、ふたりの教授にとっては煙たい存在に映ったのかもしれません。ショパンはパリで定職を得ることが出来ず、ここからショパンの苦労が始まりました。

ショパンはフェティス教授は借金のため監獄送りになることから逃れるためにレッスン以外の時はパリの郊外に住み、彼はパリに住んでいるふりをしている人であることを知りました。当時、パリでは債務者はパリでしか逮捕ができませんでした。

しかしながら、ショパンが、ケルビーニやフェティスに気に入られなかったことはショパンの寿命を幾らか伸ばしたとも言えなくもないのです…









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