F.CHOPIN、フレデリックが会いたいのは友人ノヴ、そして、ローラ夫人のノアン訪問

ショパンはノアンの村は夏の間の滞在とはいえ、村の人たちとの一緒にピクニックへ行ったこともあったり、とノアンの住人のようにすっかり馴染んでいた。しかし、この年は、ショパンは村の行事にはサンドと共に参加しなかった。「彼らはヴァリー・ノワールとして知られる(フランス中部アンドル県のシャトル地区)地域への様々な外出や遠足で、この夏を過ごしました。僕は参加しませんでした。そんなことをしていると、村の人々には価値あることでも、僕にはそれ以上に疲れるからです。

疲れ果てていると、僕は決して明るくなれなくなり、誰に対しても水を差すようになるからだ。その結果、若い人たちは僕と一緒にいることに喜びを感じなくなるのだ。

僕はパリにも行かなかったが、とても楽しかった。

ドラクロワが来てくれて、僕の原稿を送る機会があったからです。だから、

僕はノアンから動く必要がなかったのです。

でも1ヶ月後には、僕はパリのスクウェア・ドルレアン広場に戻ってヨゼフ・ノヴァコウスキを見つけたいのです。僕のアパルトマンに彼が名刺を置いて行ったとロゼール嬢から聞きました。

僕は彼に会いたいと思っているので、そうしなければなりません。

ここの人たちは彼をノアンに招待したくないのです。」

ノヴァコウスキはワルシャワ音楽院時代のフレデリックの友人で、彼もまた作曲家であった。1836年、彼はショパンと一緒にライプツィヒに居るシューマンを訪ねたことがあったのだ。ノアンに招待されるのはサンドの御眼鏡に適った人だけだった。ショパンが会いたいと思っているポーランド人の古くからの友人は、ショパンの意向で招待することは出来なかった。

ショパンは、ポーランド語を忘れないようにと、自分の使用人はサンドとは別にポーランド人と決めていたが、ノアンでは、ポーランド人を雇えなかった。サンドの使用人とショパンの使用人は別々で、ショパンの使用人のヤンは1年前の騒動でサンドに辞めさせられたため、ノアンでショパンの使用人は雇えなくなってきていた。ポーランド語を話すこともないフレデリックだった。

「僕とノヴァコウスキはポーランド語で話すことが出来るから、多くの思い出がよみがえると思います。

マッシンスキは亡くなってしまい、ローラ伯爵夫人がこのノアンを去ってから、僕は、ポーランド語を話していません。

ローラがノアンを訪問してくれたことは、この前の書簡(現存せず)であなたに話しましたね。」

ショパンは親友マッシンスキが亡くなって以来、ポーランド語で話せる気の置けない仲間がいないのである。そして、ルドヴィカがノアンに来てくれなかったこの年は、その代わりにポーランドからローラ夫人が来てくれたのだった。ローラ夫人はショパンが少年の頃、一緒に父ニコラスからフランス語を習った友人だった。お互いポーランド語で話せば、昔に戻れる気の置けない仲間といったところであろう。

「彼女がここにいる間、彼らは彼女にとても親切だったかもしれませんが、彼女が去ったとき、彼らは彼女をあまり気にしていないことを態度で示しました。」彼らとは、サンド一家とその養女のことだ。

「 従姉妹(オーガスティン・ブラウト)はローラ夫人を好きではなかったし、もちろん息子(モーリス)もローラを好きではありませんでした。 その結果、彼らは冗談を言い、冗談から下品な振舞いをしました。 そして、それが僕を怒らせたのです。

僕は彼女のことを(オーガスティンとモーリスが)口にするのを辞めさせました」

どうやら、養女のオーガスティンとモーリスはサンドの躾がなされていないがために、

ポーランドから来たショパンの客人にたいそう失礼な態度と言葉を発したようだ。

ショパンは、サンドの手前それ以上は詳しく書けなかったが、ショパンが怒るとは余程のことであったのであろう。

サンドはパリでも子供のしつけをせずにお金ばかり与えて甘やかしていることを批判されて来た。

息子モーリスはもう23歳になっていた。その23歳になっていた大人になったモーリスにサンドの居る前でショパンが意見をすることはサンドにとっては気に入らなかったことは間違いないであろう。

ショパンをサンドは下僕と見て来たからだ。

ショパンにしてみたらポーランドから、はるばる来てくれた同胞を今まで自分が育てたも同然のモーリス、そして、ソランジュへの当てつけでサンドが養女に貰ったばかりのオーガスティンなどに、ローラ夫人がののしられることは自分への侮辱でもあったのだ。

ショパンはとうとう我慢がならなくなったのだ。

「このノアンに居る皆と楽しい思い出を残すためには、ルドヴィカのような慈悲深い魂でなければなりません。 サンド夫人はルドヴィカの前で、『しばしば、あなたのお姉さんは、あなたよりも百倍の価値がある』と僕に言いました。 僕はその時、答えたものです。『僕がそれは一番よく知っています』。」

サンドの不出来な息子モーリス、ルドヴィカが来た時はまだオーガスティンは居なかったにしろ、

姉ルドヴィカはサンドの館のショパンの家族でもない、それぞれの住人に上手く相手をしてくれたのだ。

それもそのはず、ルドヴィカはショパンのためにお金をたくさん持って来て、サンドやサンドの子供たちそして使用人にも、それぞれお土産やお金を手渡したに違いなかったのだ。

ローラ伯爵夫人がルドヴィカから預かった付け届けが少なかったのか、ローラ夫人自体がお金をサンドの子供にまでは渡さなかったのであろうか。恐らくはそんなところであろう。

現金な奴がサンドなら、サンドの子供も子供なのだった。


ノヴァコフスキ(1800年9月16日ポーランド、マゾフシェ-1865年8月27日ワルシャワ) 

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~ショパンの肖像、~友人で作曲家のヨゼフ・ノヴァコフスキ~

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