「今日は雷雨で、少し暑いです。」
フレデリックは何日目であろうか、恐らくは、ルドヴィカへ書簡を書き始めてから5日目あたりであろう。
ノアンは10月の中旬であるが、まだ暑い日があった。
ノアンの広い敷地の庭ではサンドが雇っている庭師が植物の手入れに来ていた。
フレデリックはそれを窓から眺めながら書簡を書いていた。
「庭師さんが花を植え替えています。ジャルダン・デ・プランツ(パリの植物園)は、敷地を広めるために新しい土地を9,000フラン以上の価格で購入しました。それは、隣接する土地であり、その敷地内は かつてはブッフォン(博物学者)が所有していました。
いずれにしても、ヴィスワ川を見下ろす斜面にあるワルシャワの植物園のような状況を楽しむことはできないでしょう。(パリの植物園で)ルドヴィカとカラサンテが見たと思われるキリンです が亡くなりました。・・・悲しいニュースですが、ご報告したいと思います。」
ルドヴィカ夫妻はフレデリックにノアンに会いに来た時に、恐らくロゼール嬢の案内でパリの植物園と動物園へ行ったことがあるのだ。そこで見た共通のキリンの話をノアンでフレデリックと楽しく話した思い出があるのだ。
ワルシャワにある植物園からは広大なヴィスワ川が眺められるのだ、フレデリックは
自身の健康のために植物に興味があった、そしてパリでワルシャワを思い出すために
パリの植物園へよく通っていたのだ。しかし、ワルシャワのような景観は懐かしむことは
心の中でしかできないフレデリックなのだ。ワルシャワの景色を忘れないようにルドヴィカへ懸命に書く、そして共通の思い出のキリンの話、ルドヴィカと対話するかのように
フレデリックは書き続ける、フレデリックにはこんな時はルドヴィカが何て答えてくれるか聞こえて来るのだ。
そして、フレデリックは自分の社交のことをルドヴィカに伝えた。
「今年は結婚式の招待状の多くの手紙がありました。
葬式の知らせが1通ありました、私がとても好きだったサブラン伯爵です。」作曲家として有名になったフレデリックには招待状がパリのアパルトマンにいつものように幾つも届いていた。それを、ロゼールにノアンに送ってもらっていたショパンだ。
サブラン伯爵のことはとても好きだったとルドヴィカへ話すフレデリック。
サブラン家は元々は、フランスとイタリアの貴族でアルプ=ド=オート=プロヴァンス出身の騎士道家の名家だった。サブラン伯爵は作家でもあり、聖エルゼア・ド・サブランと彼の妻のサブラン・デルフィーヌの直系であり、プロヴァンス地域の名門貴族の最後の相続人であった。その、サブラン伯爵とショパンの関りはショパンのパトロンの中のひとりでもあったのであろう。
ショパンはサンドと共に、冬の間は南フランスへ行くか、イタリアへ行くべきかを相談していたショパンだったことから、南フランス行きはサブラン伯爵の計らいを期待していたのかもしれなかった。この出来事で、ショパンは冬の南フランス行きからイタリア行きをサンドと話し合っていたのだ。
サブラン伯爵の両親
聖エルゼア・ド・サブラン(1285 - 1323)とサブラン・デルフィーヌ(1283 - 1360)
アッシジの聖フランシスコ会に属していた。
サブラン伯爵(1774年-1846年9月サンジェルマン=アン=レー)
エルゼアール=ルイ=マリー・ド・サブラン伯爵
フランスの作家、彼は聖エルゼア・ド・サブラン(1285 - 1323)とサブラン・デルフィーヌ(1283 - 1360)の直系の子孫であり、プロヴァンスの名門サブラン家の最後の相続人である。彼は七月君主制下のフランスの貴族、エルゼアール=ルイ=ゾジメ・ド・サブランの従兄弟だった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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