F.CHOPIN、さまざまな感情が渦巻くポーランドとパリを知るフレデリック

フレデリックは、ずっと前に書き上げてあったマズルカ作品63を何度も見なおして

いた。ルドヴィカもそのことは知っていたのだ。だから、フレデリックはルドヴィカに「あの作品63のことだけど」と話したのであろう。そして、フランショームと共演するためのチェロソナタも既に出来上がっていたはずだった、「出来上がった」と10か月も前にルドヴィカに伝えていたフレデリックだったが、どういう訳か、それを更に書き直しをしていたフレデリックでなのだ。なぜか・・・フレデリックは「完成した」が、フランショームは演奏が「完成しなかった」ため気に入らなかったのだ。フランショームはパリの音楽院の主任教授になったのだ。フレデリックは何度も何度もフランショームのための書き直しがあり追い詰められていたのだ。

ルドヴィカだけには、パリでの作曲家としての自分の置かれた立場の現状を話したフレデリック、そして、その後、ルドヴィカの家族のことを労わったフレデリックであった。

「近いうちに、あなたから連絡が来るのを楽しみにしていますが、不安はありません。

特に私たちの場合は手紙では充分ではないです。あなた方、家族が集まって落ち着いて書くのは難しいでしょう。

ことわざにあるように、何年もかけてすべてを語り、それを胸からすべて取り除くのには何年かかるかさえわかりません。」

手紙だけが唯一の通信手段だったこの時代は、手紙は一人一人のやり取りでけでなく、家族は集まって、それぞれ一緒に書き添え、それを1通にまとめて送り合っていた。

そのため、ショパンも友人やサンドの追伸が添えられることがよくあった。

家族はそれを全員で集まって読んでいた。フレデリックはそんな家族の光景を想い浮かべながらルドヴィカを労わった。

そして、「ポーランドに伝わることわざを私は忘れていませんよ」と言いたかったフレデリックなのだ。

「ですから、私からの書簡がなくても驚かないでください。あなたが書くことを妨げる理由は私に同じように当てはまりますから。他の原因はありません。」

ルドヴィカは夫であるカラサンテと夫婦仲が冷え込んでいたのだ。カラサンテは完全にロシア寄りであるため、フレデリックには協力的ではなかった。ルドヴィカはフレデリックに冷たい夫のカラサンテの態度に苦しんでいた。ルドヴィカは、フレデリックに手紙をカラサンテの目を盗んで書くことが難しくなっていた。

フレデリックも、それは同じでサンドという監視員の目を盗んで好きなようにルドヴィカへ書けない時もあった。お互いにそれを察するルドヴィカとフレデリックなのだ。

「あなたに手紙を書く喜びとは切っても切り離せない後悔があるのは、私たちの間ではもはや言葉は重要ではなく、事実さえも重要ではないと確信したからです。私の最大の幸せは、皆さんが元気であることだけです。」

フレデリックの最大の後悔はサンドとノアンに暮らさなくてはならなくなってしまった自分とポーランドに自由に帰れない自責の念だった。

しかし、それももはや、時間と言う経過で取り返しが付かない今は、その事実よりも

お互いに元気でいる事だけを願うフレデリックだった。

フレデリックは続けた。

「あなたは常に明るい面に目を向けてください。あなたは、明朗快活な子供たちがいます。(私はバルチンスキが、私の甥(ルドヴィカの子供)についてどのように感じているかを知っています。そして、私は彼らのことを話す必要がありません。

祖母(フレデリックの母ユスティナ)と あなたが健康であれば、他のことは何も問題ありません。」

ルドヴィカには4人の子供がいた。イザベラ夫妻には子供がいなかった。

イザベラは11月蜂起の後は国からの要請で孤児院の大勢のポーランド人の孤児の面倒をイザベラは見なくてはならなかった。

かたや、11月蜂起後のポーランドの人々が苦しい生活だった頃に生まれて来たルドヴィカの4人の子供は、ルドヴィカの夫がロシア寄りであったため生活には不自由はなかったのだ。

それに比べて、イザベラ夫妻は父ニコラスと母ユスティナと暮らしながら11月蜂起後も苦しい生活ながら両親の面倒を見て来たのだ。そのような苦労が重なったイザベラ夫妻は自分たちの子供が望むことができなかったのだ。

そのため、イザベラの夫バルチンスキはルドヴィカの夫のことを快く思っていなかった、つまりは、その子供であるルドヴィカの子供の事も良い感情を抱けなかったバルチンスキなのだ。

それをフレデリックは知っていたのだった。

「天気がいいためか、私の健康は良いほうです。冬の厳しい天候も、昨年と同じように自分の身を守れば乗り切れると思います。

神は私の健康が良いことをお許しくださることでしょう!

しかし、私はいかに多くの人々がむごい目に遭わされているかに気付きました!

実際には私よりずっとうまくやって、いい思いをしている人たちがたくさんいるのです。しかし、私はうまくいっている人については興味がありません。」

夫婦仲が悪いルドヴィカはかわいそうであるが、使用人を雇うだけの余裕のある暮らしぶりであった。フレデリックはイザベラ夫妻のことも少しは考えてほしいと遠回しにルドヴィカに伝えたフレデリック。11月蜂起から16年経ち、ポーランドの人々の暮らしには格差がはっきりと出て来ていた。その現状をフレデリックはつい最近ポーランドからノアンへ来たことがあったローラ伯爵夫人から聞いたのであろう。

フレデリックは11月蜂起後から、うまくいっていないポーランドの人々と、

ロシア寄りのうまくやっている人たちのことをローラ夫人から聞かされたのだ。うまくいっていない人とは、それはフレデリックの性格から特定の誰かを指しているのか。フレデリックは昔の婚約者だったコンスタンツィアはうまくいっていないことをローラ伯爵夫人から聞いたのであろう。

そして古い友人のティトゥスが農業で苦労していることも聞いたのかもしれない、(ティトゥスはアンジェイ・アルトゥール・ザモイスキー伯爵の農業協会に属していた)フレデリックは、ポーランドの友人のことがずっと気がかりなのだ。

そして、それはポーランドだけに限られたことではなく、パリで順調にうまくやっているフランショームにも本当ならば言いたいことがあった、うまくいっていないフレデリックなのであった。


アンジェイ・アルトゥール・ザモイスキー伯爵(1800年4月2日〜1874年10月29日)

ポーランドの 貴族、地主、政治と経済の活動家

彼はポーランド王家のザモイスキー貴族の出身で、ローザ・ザモイスカ伯爵とポテッカ伯爵夫人の間に生まれました。彼はパリ、ジュネーブ、エディンバラで教育を受けました。1823年に彼はポーランド政府の農業貿易省の局長に就任した。1830/31年の11月の蜂起中には彼はウィーンに逃れて支援を求めました。

ザモイスキーは、ポーランド議会ポーランドの彼のクレメンスフ邸で地主の会議(クレメンソウチィ)を組織しました。1842年に彼はポーランドの雑誌「国民経済の記録」の共同出版者になりました。1848年に彼は蒸気航海会社を設立し、その後ヴィスワ川の輸送を独占した。彼はまた、蒸気船と艀(はしけ)の建造を始めました。彼は農業協会の創設者であり会長でした。

1858年に彼は農業会社の創設者であり、その後の年にその社長を務めました。この組織は彼のリーダーシップの下で発展し、ポーランド議会でより穏やかな貴族的な保守的な政治勢力を代表しました。77の地区に4,000人を超える会員がいました。彼はポーランドの政治市民に最も影響力のある演説をしました。組織は、ほと​​んど議会の代わりになりました。

アレクサンダー・ウィエロポルスキーは、彼と反対勢力でした。ウィエロポルスキーがますますロシア人の陣営に移るにつれて、ザモイスキーは、それに反対派のポーランドの貴族的な保守的な政治勢力に留まり、1860年代の初めの大規模な国家デモの間に穏健な「ホワイツ」の指導者になりました。

アレクサンダー・ウィエロポルスキーは、ポーランド貴族出身でしたが1862年ロシア帝国の皇帝アレクサンドル2世の下でポーランドの行政局の局長に任命されました。

アンジェイ・アルトゥール・ザモイスキー伯爵はロシアから独立したポーランド国家を樹立するスローガンを宣言し、ウィエロポルスキーの政治と戦いましたが、彼はサンクトペテルブルクで皇帝との会談に失敗した後、フランスに亡命しなければなりませんでした。ポーランドの「ホワイツ」は指導者を失い、1863/64 年の失敗に終わった1月蜂起の発生につながりました。

1863年9月に亡命したザモイスキー伯爵はフランスに定住し、ポーランドの大移民の一部となった。1872年に彼はパリのポーランド図書館のパリとポーランドの共同所有者となりました。


Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

0コメント

  • 1000 / 1000