F.CHOPIN、ショパンのパリの粉ひき工場と、天文学者アラゴとサンドの謎の関係

ショパンは、そろそろ、1週間近くも書いていたルドヴィカへの書簡をまとめに入らなくてはならない。

この書簡を書き終えたらノアンからパリへ戻ろうと思ってるショパンだった。

いつものごとく、ショパンはパリに戻る前に、自分のアパルトマンの部屋が快適な状態になっているようにロゼール嬢に頼んだ。

ノアンの滞在が長くなったこの年は5月の末頃から、5か月以上もパリのアパルトマンを空けていたのだ。

「カーペットを敷いてもらい、窓とドアのカーテンを掛けるようにロゼール嬢に家具店に依頼するように私はロゼール嬢に書きました。」

ショパンは、パリに居ない間に自分の部屋の装飾を新しくしておくようにロゼールに頼んだあった。

パリでは流行の移り変わりが早く、ショパンは、お金持ちのパトロンの夫人から、

「流行らない部屋ね」「つまらないわ」と愛想を尽かされないように最大限の見栄を張らねばならないのだ。たとえお金に困っていても、そこだけは外せないショパンなのだ。だから、稼いでも稼いでもお金はそのような贅沢に消えていくのだ。

「私はすぐに私の『粉ひき工場(製粉、水車小屋)』について考えねばならない」ショパンはパリに戻ったら直ぐに伯爵夫人などのパトロンのレッスンに追い掛け回されるのだ。

ショパンにとっては、お金を援助してもらっても本当はやりたくない冷や汗が出る仕事なのだ。そのレッスンに使う部屋は豪華でなくてはならない。そして、その部屋から聞こえてくるご夫人方が奏でるピアノの音はショパンには製粉工場の「どったん、ばったん」という音に聴こえるのである。だから、「私の粉ひき工場」なのだ・・・。

ルドヴィカには何でも正直に書くフレデリックは続けた…

「つまり私のレッスンについて考える必要があります。」

そして、

「私はおそらくアラゴ氏と一緒に出発します。」

アラゴとは、あのアラゴだ、海王星の発見のことを「ルヴェリエ」

と名前を付けることを提案していたアラゴ氏だ。彼も天文学者なのだが、フレデリックは新聞で知った学者の話だけでなく、実際にアラゴと知り合いだったのだ。しかも、サンドの館にショパンと共に滞在していたのであった。

そのアラゴ氏と一緒にノアンを出発してパリへ向かうことをルドヴィカに伝えたフレデリックだった。

アラゴは、ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村エスタジェルの生まれで、

最初、軍人になるための教育を受けたが、1804年からパリの天文台で助手の仕事をはじめ、1806年にパリを発ちスペインの山岳地帯で作業を開始した。アラゴはフランス軍がスペインに侵入して政治的混乱が生じた頃、スパイ活動の疑いをかけられ1808年6月にマヨルカ島で逮捕されたことがあった。

1808年と言えば、サンドが4歳の時、母親に連れられてスペインで戦死した父親に会いに連れて行かれた頃だ。

アラゴ氏は、ノアンに滞在していたこの時60歳、なぜショパンが滞在していたノアンに来ていたのであろうか。

サンドの招きがなければ、ノアンには来れないはずである。

サンドとは、ちょうど親子程の年齢差であるアラゴ氏、きっと何か古くからの知り合いだったのであろう。その真相を知っているのはサンドの母親だけだが、そのサンドの母親は1837年に亡くなっているのだ。その37年とはショパンがサンドから最初にノアンに誘われた年だ、しかしショパンは最初は断っていた。つまりは、やはり人情があったのはフレデリックのほうだったのだ。よほどサンドがしつこかったのであろう。

そして、年月が違うが、アラゴが逮捕されたことがあったのがマヨルカ島、ショパンが隔離されたところもマヨルカ島ではないか。この接点は偶然ではないであろう。

話を戻して、フレデリックはルドヴィカへ書簡を続けた

「サンド夫人の息子のモーリスと娘のソランジは急いでパリに戻ることはないので、サンド夫人はしばらくノアンに残ります。今年は冬にイタリアに行くべきだという提案がありましたが、若者たちはノアンに留まることを好みます。しかし、春にソランジュが結婚した場合、またはモーリスが結婚した場合(どちらも保留中ですが)、

ふたりの意見はおそらく変わると思います。この話は、内緒にしておいてください。この種の話は年末までには何かが分かると思います。若い男は二十四歳と娘は十八歳。

しかし、それは当分の間私たちだけの話にしておきましょう。

5時でもう暗すぎてほとんど見えません。もう書くのを辞めます。

あなたに一ヶ月以内にはパリからニュースを送ろうと私は思います。」

フレデリックはアラゴ氏とノアンでいったい何を話したのであろうか。。。


フランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ(1786年2月26日 – 1853年10月2日)

フランスの数学者、物理学者、天文学者で政治家

物理学では光学や創成期の電磁気学に大きく寄与し政治家としても業績を遺した。

フランス王国ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン近くの小村エスタジェルに4人兄弟の長男として生まれた。父は造幣所の会計係でした。

弟のジャン (1788-1836) は北アメリカに渡り、メキシコ軍の将軍となり、ジャック (1799-1855) は探検家ルイ・ド・フレシネの探検航海 (1817-1821) に参加し、帰国後はジャーナリスト、劇作家となりました。末のエティエンヌ・ヴァンサン (1802-1892) は作家としてオノレ・ド・バルザックとの共作もある。

軍人になるためには、エコール・ポリテクニークに入学を希望していた彼はペルピニャン村の学校で数学を勉強し始めた。2年半で全てを習得した彼はトゥールーズで行われた入学試験でジョゼフ=ルイ・ラグランジュについての知識で試験官を驚嘆させました。

1803年末にパリのエコール・ポリテクニークに入学した彼は、学校の勉強に不足を感じていた、彼は大砲を扱うことが希望だった。そして彼は1804年、シメオン・ドニ・ポアソンの助手としてパリ天文台の職に就きました。

そこでピエール=シモン・ラプラスとジャン=バティスト・ビオと出会った彼は、子午線弧長の測量を行った。アラゴとビオは1806年にパリを発ちスペインの山岳地帯で作業を始めた。ビオは測量範囲の最南端であるフォルメンテラ島の緯度を特定した時点でパリに戻り、アラゴはスペインで作業を続けました。

その後、フランス軍がスペインに侵入して政治的混乱が起こり、アラゴの活動はスペインの人々から疑われました。彼は山の頂上で火を焚いたことが原因でフランス軍と連絡を取ろうとしたスパイ活動だと疑われました。

彼は、1808年6月にマヨルカ島で逮捕されました。彼は、7月28日、釣り船を奪って島を脱出し、8月3日にアルジェに漂着しました。そこでマルセイユ行きの船を見つけ、助けを求めました。しかし8月16日、マルセイユに船が近づいたころにスペイン人海賊に襲撃されてしまいました。他の船員と一緒に彼はロザスに連れて行かれ監禁されました。しかし、フランス軍がロザスに到達したことで彼はフランス軍に助けられ、その他の捕らわれていた人々はパラモスに送られました。

彼は、3カ月の懲役の後、アラゴは解放されてアルジェに戻り、11月28日に再びマルセイユに船で向かうことになった。しかし、船は北風に押し返され、ベジャイアに漂着。そこで船を修理してアルジェに戻るのにさらに3カ月を要すると思われた。そこでアラゴはムスリム聖職者の案内で陸路をとり、クリスマスにアルジェに戻った。アルジェで6カ月を過ごし、1809年6月21日、再びマルセイユ行きの船に乗った。マルセイユに無事到着したものの、検疫のためしばらく隔離された。ここで受け取った最初の手紙はアレクサンダー・フォン・フンボルトからのものであり、その後彼らの交流は終生続きました。

彼は、1811年頃から光学の研究を行い、フレネルと共に行った偏光の研究はアラゴスポットと呼ばれるようになりました。彼は更に、研究の結果1816年に光はエーテルの振動による波動であってその振動方向は進行方向に対して垂直であるとの結論を出しました。その後の偏光器の発明や回転偏光の発見はアラゴの業績となりました。アラゴは1812年に世界初の偏光フィルターを発明しました。




ジョルジュ・サンド

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